子供の頃から誕生日ケーキの蝋燭が消せなかった。
肺活量の無さが原因か、毎年絶対に1本消すのに5回以上かかるのだ。
その姿はさぞかし滑稽に見えるんだろう、まったく恨めしい。
今年になってはじめて、自分で蝋燭に火をつけた。
このケーキも己の日々の労働からのプレゼントである。
駅前の小さなお店のチョコレートケーキ。
初挑戦だった。
一応、動画を回すことにした。
見返す予定はない、誰に送るでもない。
しかし、万が一を考えてしまった。奇跡を願ってしまった。
いち、に、さん、し、ご、ろく、でようやく灯は消えた。
蝋燭は2と3の二本のみなのに、なぜこんなにも時間がかかるのか。
暫くして、歌が無いことに気が付いた。
ひとりで歌うのも滑稽だと思って、開きかけた口を閉ざした。
ケーキは美味しかった。
でもなんとなく、来年は要らないなと思った。
なんとなく、本当になんとなく、誕生日は来なくていいと思った。
理由なんて無いけれどね、と言い訳をする。
目を背け続けて遂に歳を重ねてしまった。
夏生まれの君より、年上になってしまったよ。
僕は大人になってしまうよ。
「消えない灯り」
12月に入り寒さも本格化した。
遠い町には既に雪が降っているらしい、太平洋側の地域であるこちらは雪とは縁が薄いので軽々しく「羨ましい」と口にできるが、あちら側の人間としてはたまったものではないのだろう。
交通を止める程度の雪であればこちらの人間だって「降るな」と願うものだし、僕にとっては雪は思い出の宝庫であるが。なんにせよ寒いのは嫌いである。
横浜駅周辺は実に賑わっていた。きらめく街並みときらめく人間。
それらは表面上だけのものである。決してきらめいてなどいないのだ。
東京などはやはり治安が悪いのだろうか、こんなのは序の口なのだろうか、千鳥足の男に密かに舌打ちしつつ素知らぬ顔で通り去る。一度だけ現実逃避に利用したギラついたネオンの街に思いを馳せ、掻き消す。僕は、この街で生まれ育ったのだ。まさか毎日イルミネーションに照らされている訳では無いが、確かにこの街に生まれ、育ち、通っている。
街とは生きているのか死んでいるのか判別つかない。活気のない街を「死んだ」と表現しているのを見たことはあるが、この街は果たしてどうだろう。だって行き交う人は生ける屍のようで、僕も例に漏れずただ呼吸だけしている街の傍観者だから。
ふと空を見上げた。今宵は満月らしかった。この夜の街と月は、果たしてどちらが美しいのだろうか。
少し考えて月のほうが美しいことにした。道徳の教科書には、きっとそう綴られている。
誰彼に太陽だと言われたが、やはり私は月だ
太陽のあなたが夜は沈んでいるのに、私も沈んでは意味が無い
あなたにもらった光で存在を示しあなたを照らす月になりたい
ひさかたの
光のなかに
いるのなら
木漏れ日の跡
みちになりゆく
会う人は皆、彼を神と呼んだ。
決して容姿が優れているわけではなかった。美しいが地味で華のない顔立ちの男だ。背は170あるかないかぐらいで、穏やかに、静かに話す。人混みの中では簡単に掻き消されてしまいそうな声量なのに、その声は必ず鼓膜をピンポイントに撃つ。聞き逃すという行為が重罪に値するかのように、彼の声は不思議でどんなときであろうとその音波は脳に響く。
祈りを捧ぐ者の後ろ姿を見た。いつものことだ。
「救ってください」などと烏滸がましいことをよくも口に出せるなと思いつつ、決して私は口を挟まない。
捧ぐ者は跪いた。用意してきたのだろうか、幾度も聞かされ聞き飽きた長ったるい台詞を泣きを交えながらぺらぺらと話す。こんなもの常套句である。無意味である。
しかし彼はそうは言わない。絶対に否定をしない。彼を前にすると人は皆胎児のようになるのだ。なんとつまらないことか。
彼の食事の時間になると、私の労働が始まってしまう。“神”に跪く“信者”を呑み込む為の準備をしなくてはならないのだ。
というのも、完成された料理以外を目にしたくないなどと宣うので、仕方なく調理する必要がある。なんとも面倒な奴である。
誤魔化すように鼻歌を歌った。最近スーパーで流れていた曲だ。意味は分からないが、私は好きだ。歌いながら、やはり人間は愚かであると思った。
人間は神にはなれない。神になろうとする人間は愚かだ。だが、人間を信仰する人間はもっと愚かだ。
しかし祈りの果てが腹の中とは、笑ってしまう。やはり彼を前にすると人は胎児のようになるようで。