もう少し進んでみようと思えた。だから僕はカーテンを引っ張った。時刻は10:30を過ぎた頃だった。
湿ったようにぬるい服を引き剥がして、タンスの奥底のTシャツを着込んだ。
ほのかに漂う防虫剤の匂いが過ぎた時間の長さを思い出させる。こんなにも長い間、お前はここに留まっていたんだと教えられた気がした。
何もかも嫌になる。何もかも否定したくなる。そうすれば何も抱えなくてもよくなる。失う以前に与えられることが無くなる。だから僕は全部を捨てて殻にこもった。
でももう一度、これが最後でいいから許してほしかった。許されたかった。他でもない自分に生きてて良いと許してあげたかった。だから僕は扉を力強く押してみた。
薄暗い部屋の中とは正反対の明るくて彩度の高い世界。外の世界。東から差し込むサーチライトが身体の中に蓄積した罪を照らし出したようだった。過ぎた時間とともに積み上がった余罪が1つずつ数えられていく。光を向けて影を見るのも、その影を数えるのも全部僕の仕業だった。
目の前を見るのが嫌になって天を仰いだ。
雲一つない青空がやけに深く見えて怖かった。
こんなに深くて広い世界の中の小さな存在に過ぎないことが救いなのか失望なのか、今の僕には判断できそうもない。
お題:0からの
「その気持ちわかるよ。辛いよね。よく頑張ってる。本当によく頑張ってるよ。」
あなたはそう言ってくれた。でも私は貴方の事は分からない。本心も思惑もその言葉を選んだ意味さえも。
こわばった肉を貴方の手が包んでくれた。凍ったものを水で解凍するみたいに、冷え切った身体を湯船に沈めるように温かさが私を包み込んでいる。
重なり合う皮膚の凹凸と摩擦さえも優しさを含んでいる気がした。
だから今は、その言葉を向けてくれたこの瞬間を大切にさせてください。貴方の皮膚の匂いを私の脳に焼き付かせてください。
お題:同情
くしゃり、とつま先が音を鳴らした。
枯れ葉が受け止めきれない重さに押し潰されて粉々に割れていた。今の僕とよく似ていた。
「もうこれでおしまいにしましょう」鉛をぶつけられたような言葉が扁桃体を潰した。
一定のリズムを刻みながら遠のいていくヒールのメトロノームが僕に催眠術をかけた。
これは夢だこれは夢だこれは夢だこれは夢だ僕は悪くない僕は悪くない僕は悪くない僕は悪くない
背中から刺さるように響く楽しげな子供の声が、不愉快な痛みとして鼓膜の奥を突き刺した。
お題:枯葉
浮き上がる体が地面から離れぬようコンクリートを踏みしめる。地を這いつくばり色を失った人々がいつもより低く見えた。
濡れたセメントの匂いも見知らぬ人間の揺れる傘も足をつかむように染みる雨水もなにもかも、今日だけは僕自身の幸せを引き立てるための舞台だった。
お題:特別な夜
全身に穴を開けるような大雨の中、タオルを頭巾のように被り、顎の下で力を入れて抓む。大した雨よけにはならないだろうけど、野ざらしで走るより幾分かはマシだ。
一歩を踏み出す度、ランニングシューズの隙間から泥水が染み渡る。汚れきった液体を飲み干した靴下が、膿んだ傷口のようにじゅくじゅくと不快な感触を生み出していた。
汗と汚水が混ざり合いながら全身の皮膚に纏わりついていく。張り付いたワイシャツを空いた手で引き剥がしながら少しでも体に風を当てて、湿気から逃れようとした。
長い通学路を走りきった頃には、服を着たまま海に飛び込んだような姿になっていた。
被っていたタオルを絞り、少しでもアパート内を濡らさぬように全身の水分を拭き取ると、足早にエレベータに向かい、上に向いた矢印を押す。目の前まで下降してくるのを待ちながら、タオルの編み目を逃れた水滴がスカートから滴り落ち、乾いた廊下を暗い灰色に染めるのを眺めていた。
アパートの階数を表示している、1から5までの数字がゆっくりと一つずつ数えられていく。全てを数えきると満足したように扉が静かに開いた。
狭い空間から踏み出すと、先ほどまで自分が描いていたものと同じ跡が床に染み出していた。
何となしにその後を視線で追いながら、自室のドアに向かうが、忽ち強烈な違和感が胸の奥をわしづかむ。
自身が持っている鍵が開くことができる扉より先は、何も描かれていなかったのだ。
内側から剣山を押し当てられたように全身の皮膚がぶつぶつと盛り上がる。
チャリッと音を鳴らして左手に持っていた鍵を差し込みゆっくりと回す。そこには毎日あるはずの硬い抵抗感が無かった。
脳の隅に追いやられていた「自分が忘れただけかもしれない」という可能性に縋りつきながらノブを回す。
激しい雨音に掻き消される程静かに慎重に扉を開く。
中を覗き込もうとした途端、影のような手が漏れ出し部屋の中に引きずり込まれた。
巨木のような影がその存在を押し付けるように私を抱え込んだ。
「な、なんでいるの…?」震える声を必死に押さえながら聞く。
「会いたかったんだよ」
耳鳴りが響くほどの静寂の中、答えのようで違う言葉の意味を教えるように、背中に回された腕から鍵の音によく似たチャリッという音が耳を貫いた。
お題:君に会いたくて