「──オルロック?」
声が聞こえた。天に広がる春の日のお日さまみたいな、柔らかくて暖かな声が。それが彼女のものだと理解するまでに、そう時間は掛からなかった。
「どうしたの、こんな所で」
フフ、と細やかな笑い声を奏でながら、リリィがおれの隣に座る。雑草と野花を敷き詰めただけの絨毯が、ふわりと彼女を優しく包み込んでくれた事に、何故か少しだけほっとした。
「……空を、見ていた」
「空?」
「うん、空」
教国の中庭に寝転がったまま、おれは一人呟く。両眼に映っているのは、雲一つ無い青空。この世界の、汚いものも、悲しいものも、間違ったものも、何も知らないみたいな、穏やかな青空。
「──とても、綺麗だと思った」
おれの前に広がったそれは、どこからか聞こえる子供たちの笑い声に良く似た、とても眩い世界だと思った。綺麗で、清らかで、優しくて、もしも天国というものがあるのだとしたら、きっとあの景色を指すんじゃないか、と思うようなそれを、じっと眺めていると。
「……わたしも、見て良いかしら?」
「え」
その質問に答えるよりも先に、リリィは身体を倒して、やがて気が付けばすぐ隣に寝転がっていた。
「本当に、綺麗ね」
少しはクッションがあるとは言っても、硬い地面の上で痛くは無いのかな、とか。せっかく洗濯したばかりの服を着ているのに、汚れてしまわないのかな、とか。そんなおれの心配を他所に、彼女はころんと身体の向きを変えた。
多分それは、彼女にとってはただの他愛もない雑談なんだろう。
行儀が良いとは言えないと分かっていても、今日はいつまでもこうしていたいと思った。
「……不幸だと思った事?」
僕の問いかけが意外だったのか、目の前の彼女──リリアーナ・アドルナートは二、三度の瞬きと共にそう繰り返した。
「ほら、君は……市井に生きていたのに、僕達の争いに巻き込まれたから」
何も知らない間にファルツオーネファミリーの屋敷へと連れて来られて、訳も分からないまま自分が特別な人間だと教えられて、挙句の果てには敵組織の元へと連れて来られた。
「……そう言われてみれば、わたしって凄い経験をしているのね」
自分のこれまでを振り返って、そんな呑気な纏め方をするのもどうなのだろうと思いながら、僕は言葉を続ける。
「つまり、そんな非日常的な経験をしている自分を、不幸だと思ったりしないのかな、って」
マフィアが治める街で暮らしている、と言っても、彼女は所詮はただの女の子だった筈。少し硬いベッドで朝を迎えて、昼間は商店街の人々と言葉を交わして、夕方になれば神の元に集った家族と食事を囲む。それが当たり前だった身に突然ここまでの出来事が重なれば、不満や不安を抱いてもおかしくは無いだろう、と。そう言外に含みながらそっと顔色を伺えば、リリアーナは再び瞬きを繰り返して、やがて──困ったように笑いを浮かべた。
「確かに、幸運だとは言えないけれど、でも」
自分の中で考えを模索していたのだろうか、数度視線を巡らせた彼女が、そっと瞼を下ろした。
「でも……わたしが選んだ事だもの」
囁くように呟かれたその言葉は、風の音一つで消えてしまいそうな程に小さな声だったのに。
「限られた道だったのかもしれないけれど、ファルツオーネファミリーのお屋敷へ行く事も、こうしてヴィスコンティの屋敷へ来た事も──ニコラの側にいたいと思った事も、全部……」
これまでの軌跡を確かめるように紡がれていくその言葉は、僕が先程反芻したものと変わらない筈なのに、不思議な程に眩い光を帯びていて。
「全部、わたしが選んだ事だもの」
そこには哀れみや同情の一切を必要としない、確かな強さが秘められているという事実に、漸く気が付いた僕は。
「──」
自分よりも若く、可憐で、慈しむべき存在の、しかしずっと強かな意思を前にして。ただ独り、息を呑む事しか出来なかった。
「だから、不幸だとは思っていないわ」
微笑のままにそう話を締め括った彼女が、小さく首を傾ける。答えになっているか、と聞きたそうなその仕草に、僕は小さく頷いた。
「……グラッツェ」
唇から零れた台詞がリリアーナの頭に疑問符を浮かべる事は、十分に分かっていた。それでも、僕は零さずにはいられなかった。
(……その理由は、君自身も気付いていないのだろうけれど)
だけど、リリアーナ、君は──君の持つ生来の強さは、確かに助けたんだよ。抱いてはならない罪悪感に苛まれかけた一人の男を、ね。
(ピオフィ ニコリリ)
「……本当に、キミって」
すぅ、と健やかな寝息をたてる雛菊ちゃんを見下ろしながら、ボクは心中で盛大な溜め息を吐き出す。いつものように彼女がボクの部屋に来て、レコードでもかけながら他愛も無い話をして、少しだけ本でも読もうと会話を切り上げて。やがてチラリと目をやった時計の針が、もう直ぐ真上を指しそうな事に気が付いて、そろそろ寝もうか、なんて言葉を掛けようとした瞬間に。
「いつの間にか眠ってるとか……子供みたい」
そんなボクの突っ込みへと相槌を打つように、彼女の手から滑り落ちた文庫本がカタリと音を立てて床に転がる。喜劇の一幕じゃないんだから、なんて下らない事を言いそうになるけれど、余りにも馬鹿らしいから止めておいた。
「まぁ、仕方ないか。ボクも本に熱中していたし」
だからって、寝落ちなんて真似はしないけどね、と呟いた声には呆れしか含ませていない筈なのに。
「ふ、ふふ」
「……何がおかしいのかな、姫君」
まるで揶揄うみたいに笑い声を溢した彼女に、少しだけ顔を顰めそうになる。それがただの寝言だと分かっていても、何だか自分の心を見透かされたみたいで酷く不愉快だと思った。
「キミ、分かっているのかな」
拾い上げた本へ、丁寧に栞を挟みながら彼女の方を見つめる。再び寝息をたてて、夢の中を漂っているだろうその顔が、何だかボクを無性に苛々とさせた。どうせ聞こえていないし、これくらいで起きる事も無いんだろうけど、と前置きをしながら、雛菊ちゃんの頬をツンと突く。
「……本当は、眠る前にもう一度話がしたかったんだよ」
別に何が言いたかった訳じゃ無い。明日は寝坊しないでとか、朝食は何だろうねとか、それから、単純に──おやすみなさい、とか。そんな言葉を交わしたかっただけ。深い意味なんて無い、だけど、キミ以外とは交わしたいとも思わない、そんな会話をしたかっただけ。
「なのに、姫君、気が付いたら寝てるし」
沢山寝て沢山仕事をして、健康そのもの、みたいな生活を否定するのもおかしいけど、少しくらいはボクに合わせる、なんて事も考えても良いのに。というか、婚約者なんだからそこら辺は察して欲しいのに。変な所で聡い癖に、変な所で鈍感だよね、とか。色んな考えを巡らせてみた所で、結局の所、多分ボクは。
(──キミと一緒に、眠りにつきたいのに)
そんな子供の駄々みたいな願望を口に出しそうになって、やっぱり止める事にした。今更そんな話をしたって意味も無いし、そんなのボクらしくも無い。だったらいっそ、明日の朝に彼女と一緒に起きた方が余程楽しい。
「まぁ、キミは文句を言いそうだけど」
ほんの数日前にも、まだ寝たかったのに、と言われた事を思い出して、フ、と唇から笑い声が漏れた。そいして、まるでそうだと言わんばかりに眉を顰めた姫君の額を優しく伸ばしてあげながら、ボクはその身体を抱き上げた。
「……おやすみ、雛菊ちゃん」
ボクは優しい婚約者だから、ベッドまで運んであげるし、暖かい布団もかけてあげる。だから──一晩中、隣に居てね、姫君。
二人で並んだ寝床は、少しだけ狭い気がした。あやすように彼女の背中を撫でながら、ボクは静かに瞼を閉じた。