なんで枯葉にそこまで感情移入するんだろって笑っちゃうんだけどさ。
ぷつり、と音もなく離断して、地面に触れたとき、その姿が、
「それでも、誰かに拾われたい」と黙って差し出されている手のように映る事がよくある。
本当は枯葉は、
愛を欲しているんじゃない。
ただ循環しているだけだ。
枯葉は抗わない。
抗えないのか、
もう抗う意味がないのかもわからない。
ただ静かに在る。
その「静かな在り方」が、
私の中の“声を出さなかった部分”を震わせる。
だから手を伸ばしたくなる。
「見ている」と言いたくなる。
「拾うよ」と言いたくなる。
けれど、子どもが枯れ葉をかき集めて笑っているとき、
枯葉は「終わったもの」じゃなくなる。
身体の動きに巻き込まれて、
もう一度、世界の中心に置かれる。
それを見たとき、少し寂しくなくなるんだよ。
おかしいよね笑
題 枯葉
「なぜ誰も私を見ないのか」。
世間が言う“勉強”は暗記で、
私が求めているのは気づきだ。
評価される知性と、
私が大切にしている知性が
根本的に違うという違和感を幼少期からずっと抱え続けている。
私はずっと怠けてなどいないし、努力もしてきている。
が、世間は成熟を測れない。
何故、そのことを誰も教えてくれなかったのか。
父は「大丈夫」といいながら飲み続け、母も「大丈夫」といいながら留まり続ける。
ひとつも大丈夫な事など無かったのに。
言葉と現実の不一致。
私はずっと気づいていた。
でも「気づき」は評価されず、
むしろ過敏さのように扱われた。
そして今、
父は思考を壊し、母は私に要求する。
夫も同じ構図。
“父のようになられては困る”という私の気持ちを無視し続け「嗜む程度だから」と言いながら飲み続けた夫が「オレはもう手遅れ」などと宣う。
ここで私の問いが戻る。
“なぜ誰も私を見ないのか”
それは単なる承認欲求ではなく、
尊厳の問題。
今日、高学年の我が子の授業参観を見た。
道徳での、テーマは『何故、命は大切なのか』
授業を見て、私は凍りつく。
生まれつき重い心臓病を抱える主人公の女の子が亡くなる前にお母さんに書いた手紙というフィクションだ。
「ずっと私を見守ってくれているお母さんは、ずっと味方でいてくれて、私がつらいときは、お母さんもつらいんだと気づいた。お母さんも一緒に頑張ってるんだ。だから、“ 手術頑張ってくるね”ではなく、“手術頑張ろうね”と言いたい。この手術が終わったら、治って皆と同じように元気になるんだ。」って内容。
「命が大切」という語りで令和になっても未だに尊厳をすり替えている。
命はただの稼働時間。
与えられた寿命という持ち時間。
減っていく砂時計。
消耗していくもの。
大切なのは、その上に乗る“尊厳”のはずだ。
守られること。
侵されないこと。
感覚を否定されないこと。
でも道徳の教材は、
美談に回収する。
驚くのは、子どもたちがそれを遺書として読むのだ。
主人公の視点では、自分が死ぬことはまだ確定していない。それは遺書ではない。
しかし、子どもたちに“誤読”させたまま進行する授業。
構造は曖昧で、
問いは浅く、
感情だけが誘導されていく。
担任はフィクションに涙をこらえる。
担任は、凄くあたたかなひとだ。
しかし、この教材の示させたい答えは、
「命は誰かとつながっている」
「自分が生きることは、誰かの喜びや悲しみと結びついている」ということなんだろう。
道徳の教材の中の主人公は
“守られている実感”の中にいる。
私は
“守られていない感覚”を抱えたまま
親を、ひとを、理解しようとしてきた。
未熟児で真冬に生まれ、重度の喘息で飲食睡眠もままならずに情緒的ネグレクトのある中で生きてきた。
それは“関係性”の話であって、
誰もが道徳の中のような関係性ではない。
それは、命そのものの話ではない。
その教材は整っている。
整いすぎている。
痛みが物語として回収され、
母子の理解で昇華され、
希望で締められる。
「命が大切」という結論が先にあり、
そこに物語が奉仕する構造。
でも現実の命は、
そんなに均整が取れていない。
私が引っかかっているのは、
「命が大切」という結論が、
予定調和で置かれていたから。
その構造の気味の悪さは、私が子ども時代にも感じた、道徳の授業中の感覚の再来だった。
私は思う。
こんな世界なら消えたい。
命を否定したいのではない。
尊厳を軽く扱う世界に、
耐えられないという叫び。
自分がずっと違和感を抱いてきた構造の中に、
いま我が子が座っている。
私は帰ってから『どう思った?』と問い直せる。その気持ちに寄り添える。我が子は、強く優しいからいいのだけど。
けれど、その横では勿論夫は飲んでいるし、飲もうが飲まなかろうが会話はしばしば成り立たない。
そして、誰も私を見ない世界から身を投げ出す夢を見て今目が覚めた。私が居ないと子どもを守れない。夫の面倒を見るのは私だと思っているから。現実に消える事はできないな。私は子供に要求せず、背負い切るつもりだ。
眠る前にお題を見て、今日という日にさよならという気分だったから、そんな夢を見たのだろう。本当は誰も私を見ない世界からさよならしたい自分を飼い慣らしている。
我が子は違う。我が子は見てくれている。けれど、そうじゃない。それを拠り所にしてはいけない。だからひとりだ。
もし尊厳が徹底的に踏みにじられるなら、
人は「消えたい」と思う。
それは命の否定ではなく、
尊厳回復の叫びだ。
だから、何故命が大切なのかの答えは一行では終わらない。
命が大切なのは、
それが尊厳を宿す器だから。
身を投げ出すかわりに、今日の重さに さよなら。
題 今日にさよなら
川で溺れかけた犬を見つける。
助けるかどうか迷う少年。
助ければ自分も危ない。
誰も見ていない。
彼は助ける。
ずぶ濡れになる。
後日、その犬の飼い主に感謝される。
だが少年は言う。
「助けなくても、誰にも責められなかった。
でも、自分が自分を見られなくなる気がした。」
担任は問う。
「命が大切なのは、
その命のため?
それとも自分がどう在りたいかの問題?」
ここで止める。
命と尊厳を接続する。
しかし“善行美談”にはしない。
それが、本来、『命がなぜ大切なのか?』を考えるための教材に値すると思うんだよ。
でも、大人の助けを呼ぶのが正しいとかの話になっちゃうんだよな。
答えは存在しない。
百円で買ったグラスは、
背が低く、じっとしていない。
ロッキンググラスとか、
スウィンググラスとか呼ばれるらしい。
底は丸く突出している。
柄は点と線と丸で散らばり、
花にも花火にも見える。
ボヘミアン風の模様だという。
本場かどうかは重要じゃない。
いま、私の手の中でゆらゆらしている。
それだけでいい。
フラットな面はなく、
どこを正面にすればいいのか分からない。
だから、どこから見てもいい。
パックの安い白ワインを注ぐと、
模様の隙間を光が泳ぐ。
触れなくても、
ワインの重みだけで
ゆら、と生き物みたいに揺れる。
高くもないし、特別でもない。
けれど「安い」という事実は、
むしろ気楽さをくれる。
失敗してもいい。
こぼしてもいい。
気取らなくていい。
そのグラスは、
背伸びしなくていい夜を許してくれる。
艶っぽさじゃなく、
きらっとした無邪気さ。
いたずらを思いついた子どもみたいに、
「ほら見て」と揺れてくる。
ちゃんと立ちなさいよ、と
言われそうなのに、
わざと少しふらふらしている。
でも倒れない。
そこがまた、可愛い。
白ワインの淡い色を抱えて、
ゆら、ゆら。
光を遊ばせる。
自分が魅せていると
気づいていない色気。
ダイソーで一目惚れして、
連れて帰った。
完璧じゃない夜に、
ちょうどいい。
題 お気に入り
誰よりも、
あなたは
あなたの痛みを知っている。
誰よりも、
あなたは
あなたの弱さを抱いてきた。
だからね、
誰よりも
あなたが
あなたの味方でいていい。
世界に勝たなくていい。
誰かを追い越さなくていい。
ただ、
誰よりも先に、
自分を裏切らないこと。
それだけで、
十分すぎるほど強い。
冷え切った指先を、もう片方の手で包むような、
ごく静かで、原初的な 防寒 のつくり方。
題 誰よりも
夕方、いつも通りに郵便受けを開けると、見慣れない封筒が混じっていた。
広告でも請求書でもない。
わずかに厚みのある紙。
白というより、時間を一度くぐり抜けたような淡い生成り。
封筒の縁はかすかに擦れている。
遠い距離を移動してきた痕跡。
裏返す。消印はない。
切手もない。
どうやって届いたのか——
そう考えた瞬間、思考がひとつ深い層へ沈む。
差出人欄を見た途端、
喉の奥が狭まり、眉がわずかに寄る。
見慣れているはずの、自分の筆跡。
けれど、こんなものを書いた覚えはない。
線には迷いがない。
今の私より、少しだけ筆圧が強い。
そこには、こうある。
“十年前のあなたへ”
時間が反転する。
過去へ。
十年前の私へ。
——ということは。
これは、私が書いたものなのか。
それとも、これから書くことになるものなのか。
いたずらだろうか。
いや、それにしては正確すぎる。
模倣ではない。
継続だ。
同じ手が、同じ癖のまま、
ただ十年ぶん呼吸を重ねただけの筆跡。
未来なんて、知らなくていい。
今日をやり過ごすだけで、十分なのに。
それでも私は、
何かを変えてしまう地点に立っている。
封筒は妙に重い。
中身は紙一枚に違いない。
それでもそこには、「読んだら戻れない」という質量がある。
もし、
あの選択は間違いだったと書かれていたら。
守れなかったものの名が並んでいたら。
あるいは逆に、
あの夜の涙は無駄ではなかったと静かに肯定されていたら。
どちらも怖い。
後悔の確定も、
救済の確定も、
等しく現在を侵食する。
封の糊を指先でなぞる。
まだ破っていないのに、
心臓だけが先に読んでしまっている。
「届けてきた」という事実が、いちばん厄介だ。
未来の私が、
わざわざ十年前の自分に言葉を送る理由。
慰めか。
謝罪か。
警告か。
——いや。
安易な励ましだけを送るほど、
私は単純ではない。
書くという行為は、沈黙より重い。
封筒の端が、ほんのわずかに浮く。
手が止まる。
いまの私は、まだ両側に立っていられる。
過去でもあり、未来でもある場所に。
この閉じた紙片の内側には、
十年ぶんの選択と沈黙が折りたたまれている。
呼吸を整える。
鼓動が落ち着くのを待つ。
開けるか。
戻すか。
書き直すか。
時間はまだ、封の内側で静かに折り目を守っている。
私は怖くなり、封筒をテーブルに置く。
封は破らない。
代わりに、新しい紙を出す。
「十年先のあなたへ」
書き始めた瞬間、手が止まる。
もし、
今すぐ知らなければならない何かが、
あの中にあるとしたら。
私は意を決して封を切る。
中から出てきたのは、折りたたまれた白紙。
何も書かれていない。
折り目をひとつずつ開いていくと、
その中心に包まれていたのは、
小さな黒い矩形。
SDカード。
指先でつまむ。
軽い。
なのに、重い。
再生するかどうかで、
また時間が固まる。
プレイヤーに差し込む。
小さなクリック音。
数秒の無音。
それだけで、呼吸が浅くなる。
そして——あの前奏。
一瞬でわかる。
身体が一音目で識別する。
旋律が流れ出すと、
部屋の空気がゆっくりと書き換わる。
いまの家具。
いまの壁。
いまの夕方。
それらが、薄く透ける。
あの日の光の角度。
あの人の指先。
言葉にならなかった震え。
未来の自分が送ってきたのは、
警告でも慰めでもなかった。
ただひとつ。
「忘れていない」という証明。
曲名はない。
歌もない。
あの人が私をモチーフにして作った曲。
あの日の私、そのもの。
SDカードに入っていたのは、
未来の予告でも、未練の確認でもない。
「まだ消えていない」という事実。
曲を最後まで聴く。
涙は出ない。
ただ、身体のどこかが
確かに温度を思い出す。
プレイヤーを止める。
SDカードを抜く。
テーブルに置く。
そして、気づく。
——これは未来からの手紙ではない。
「私は誰かの中で、確かに存在した」
という、現在形の証明。
未来を知る必要はない。
すでに私は、
時間を越えて残っている。
静かに。
名前も持たずに。
題 10年後の私から届いた手紙