窓辺に座り、暗い空を見上げる。
細い三日月が笑う星空は、どれだけ見ていても動く様子はない。
凍てつき、時を止めてしまったかのような星々に誰かの背が重なって、眉を寄せ唇を噛み締めた。
嫌なものを思い出した。視線を下ろし、暗いばかりの周囲を見つめる。星空以上に冷たさしか感じられない暗闇。重なる何かを振り切るように、窓に背を向け部屋の隅で蹲る。
目を閉じれば、すぐに意識は微睡んでいく。
この行為に意味があるのかは分からない。眠り、朝を迎えた所で、同じ日を繰り返すだけだ。
何度繰り返しても変わらない。どうすればいいのかも分からない。
嘆息し、諦めたように眠りにつく。
どうか、と願う言葉すら、もう浮かんではこなかった。
「おはよう。ご飯、できてるわよ」
キッチンから聞こえる母の声に、特に返事を返さず席に着く。
それを誰かに咎められることはない。テーブルの向こうで新聞を読む父も、見るともなしにテレビを見ている兄も、変わりはない。
「今夜の天体観測のイベント。あんたも行くんでしょ?」
何度も繰り返し聞いた言葉に、思わず顔を顰める。込み上げる溜息を殺して、静かに首を振った。
「行かない。興味ない」
「夜は冷えるからね。ちゃんと暖かくしないとダメよ」
殺しきれなかった溜息が溢れ落ちた。
自分が何を言っても、どんな行動を取っても母の言葉は変わらない。
「今の時期は空気が澄んで、星が良く見えるからな。楽しみだろう」
「俺、やっぱ行きたくないんだけど。寒いし。面倒だし……お前に付き合ってやるんだから感謝しろよ」
母だけではなく、父や兄、出会う人々すべての行動に変化はなかった。
自分一人だけ、同じ時間を繰り返しに気づいている。時間が巻き戻っているのではない。まるで舞台の上にいるかのように、あらかじめ決められた台詞、行動を自分以外が取っている。
「お兄ちゃんは相変わらず素直じゃないのね。前々から楽しみにしていたでしょう」
「か、母さんっ!それは内緒にするって言ったじゃんか!」
自分一人だけが異様だ。目を逸らすように無言で朝食をかき込み、席を立つ。
家族は変わらず、楽し気に会話を楽しんでいる。変わらない内容。変わらない仕草。目にするのも嫌で、部屋を出た。
「お前、本当に星が好きだよな……俺のジャンパー貸してやるから、風邪だけは引くんじゃないぞ」
「なら、俺のコートはお兄ちゃんに貸してやろう」
「やだよ。父さんでかいから、俺が小さく見えるじゃん」
「心配しなくても、俺の子なんだからすぐに大きくなるさ」
自分がいなくとも、家族の団欒は続く。
耐え切れず、耳を塞いで走り出した。
部屋に駆け込み、目を閉じ耳を塞ぐ。
何故こんなことになっているのか。一番最初の記憶を思い出そうとするが、繰り返し過ぎたためにどれが始まりだったのかすら曖昧だ。
「なんで、どうして……」
疑問を口にしても、答えはない。
代わりに感じるのは、強い目眩。立っていられず、ずるずると座り込む。
目の前が白く点滅して、目を開けていられない。頭を押さえ、目を閉じた。
次に目が覚めた時には、夜になっているのだろう。どんな行動を取った所で、例え逃げ出した所で、結局最後に行くのは天体観測が行われる天文台だ。
父と兄と、三人で向かった天体観測。凍てつく星空を思い、それに重なる去って行く背を思い、強く唇を噛みしめた。
「やっぱ、夜は冷えるな……寒くないか?」
兄の声がして、閉じていた目を開ける。
見上げた空は、一面の星空。天文台の敷地内になる丘の上で、望遠鏡を前に立ち尽くしていた。
誰も星も月も動きを止めていることに気づく様子は無い。皆楽しげに望遠鏡を覗き、興奮したようにはしゃいでいる。
「ほら、これでちゃんと見えるはずだ。試しに覗いてみろ」
父に促され、兄は望遠鏡を覗き込む。少しして感嘆の溜息が出るのも、何度も見て知っている。
前回は、天文台の中に逃げ込んだ。今回はそんな気力さえ沸かない。
「すっげぇ!お前も覗いてみろよ!」
笑顔の兄が、こちらを見る。その後ろで、父もまた微笑ましげに見つめている。
見た所で変わらないはずだ。けれど逆らった所で、何かが変わる訳でもない。
小さく溜息を吐いて、望遠鏡を覗き込む。
凍てつき、動くことを止めた星々。それが見えるはずだった。
「――っ!」
最初に見えたのは、黒だった。
烏の羽。一瞬そう思ったものの、すぐに違うものだと気づく。
それは人のように見えた。黒い翼を生やした少年がこちらを見て佇んでいる。
慌てて望遠鏡から顔を離し、空を見上げる。遠くに見えた影が。瞬きの間に目の前に降り立った。
「お前、こんな所で何してんの?」
「えっと……?」
首を傾げながら問う少年に、同じように首を傾げ困惑する。
「記憶の中に落ちてるなんて、器用だな……いや、もしかして、お前ごと記憶を閉じてるのか?」
自分にはまったく分からないことを言われ、口籠もる。居心地の悪さに視線を彷徨わせ、そこで辺りの異変に気づいた。
周りの人々が固まっている。星空のように凍てつき、少しも動かない。
「なに、これ……」
「あぁ、何にも知らないのか。迷い込んだっていうより、閉じ込められたって方が正しいのかもしれないな」
怯える自分とは対照的に、少年はどこか悲しげに目を細めてこちらを見ている。少年の口ぶりからこの異変の原因ではないことは分かるが、それでも怖ろしさを感じ後退る。
「そんな怖がらなくてもいいと思うんだけどさ……というかお前、これからどうすんだ?」
「どうするって……?」
「このままここで、動かないでいるのか。それともここを出て、先に進むのか……ここにいるなら俺は行くけど、ここを出るって望むんなら一緒に行くこともできる」
少年の言葉に息を呑んだ。
ここを出る。つまりこの繰り返しから抜け出せるということ。明日を迎えるということだ。
無意識に握り締めた手が汗ばみ、震える。視線が彷徨い、それでも足を踏み出せば、ぐいと強く誰かに腕を引かれた。
「なっ……!」
振り向いた先の黒い影に、肩が震える。見慣れたシルエットから兄のものだと分かる影が、逃さないとばかりに腕に絡みついていた。
恐怖で立ち竦んでいれば、今度は逆の腕を掴まれた。振り向く視線が背の高い父の影を認め、声にならない悲鳴を上げた。
「やだっ!離して……離してっ!」
がむしゃらに腕を振るが、振り解くことができない。
恐怖と困惑と、そして怒りの感情に頭が真っ白になっていく。
「嫌だ!手を離したくせに!置いていったくせにっ!」
自分でも訳の分からない感情が、ぐるぐると渦を巻いている。
誰かの背が脳裏に浮かび、振り払うように暴れた。
「進むんだから、これ以上邪魔をしないでっ!」
感情にまかせて叫べば、強く風が吹き抜けた。
目も開けていられない程の強風。耐えきれず目を閉じ蹲れば、掴む腕が離れていくのを感じた。
自分の中の感情のように、風が渦を巻いている。ふわりと体が持ち上がる感覚がして、次の瞬間には何も感じなくなった。
「そろそろ目を開けても大丈夫だと思う」
少年の声がして、恐る恐る目を開けた。
「――あ」
眼前に広がるのは、果てのない星の海。地上から見た時のような凍てつき止まった感じはなく、時折煌めいては流れ落ちていく。
「きれい……」
「ん。よかったな」
気づけば少年と手を繋ぎ、空を飛んでいた。少年の背の翼が羽ばたけば柔らかな風が起こり、頬を撫でて過ぎていく。
「進むって望んだから、途中までは送る。でもその後は、自分で歩いて行かないと駄目だから」
「分かった……大丈夫。ちゃんと歩けるから。ありがとう」
礼を言えば、少年は大きく羽ばたいた。いくつもの星が横を過ぎて、すぐに見えなくなる。
まるで流れ星のようだ。少し前の激しい感情の渦のことなどすっかり忘れ、過ぎる星を見つめ目を細める。
「そろそろ降りるから。手を離すなよ」
言われて、強く手を握る。同じように握り返してくれる手の熱が、近づく大地に対する恐怖を解かしてくれている。
とん、と地面に降り立てば、足に伝わるその固さに一度だけふらついた。少年が手を引く前に、足に力をいれて真っ直ぐに立つ。
「大丈夫。一人でもちゃんと立てるし、進めるから」
だから、と少年の手を離した。
一人でも立てていることに、密かに安堵する。気持ちが揺れてしまう前にと、少年に背を向けて歩き出した。
「頑張れよ」
少年の声に手を上げて答える。
振り向くことはしない。歩みを止めることもない。
見上れば、美しく煌めく星空が広がっていた。
あの繰り返しから、前へと進めたのだろう。
星空を見ながら、切り取られ繰り返したあの日のことを考える。
ただの夢だったのか。誰かか、或いは自分の願望だったのか。
「何だっていいか」
苦笑して、視線を下ろし前を見た。
原因が何であれ、もう今の自分には関係がない。
振り返らずに進むのだと。そう決めたのだから。
20251201 『凍てつく星空』
くしゅん。
小さなくしゃみと共に、毛が逆立った。
「そろそろ寒くなってきたからね」
くすくすと彼女は笑いながら、四本の尾で体を包んでくれる。
暖かい。逆立つ毛を丁寧に毛繕いしてくれる神使の姿の彼女は、白くてきらきらしていて、とても綺麗だった。
「さて、今度はどんな物語が聞きたい?それとも遊びに行こうか」
柔らかな彼女の声と、毛繕いの気持ち良さに目が細まる。
次は何をしようか。そう考えて、ふと気になっていたことが口から溢れ落ちた。
「神使のことについて知りたいな」
神使とは、ただの役割だと彼女は言った。お役目を持って長くを生きた狐。それが自分なのだと。
「そうだねぇ。神様のお使いがほとんどかな。人間からのお願い事は、私は専門外だったし」
聞きたい?そう聞かれて頷いた。
彼女のことが知りたい。秘密を知って前よりも仲良くなれて、なのにさらにもっとと欲しくなる。
我が儘だろうか。そう思うが、彼女の尾が優しく背を撫でて、思わず甘えて擦り寄った。
「じゃあ、特別に教えてあげる。昔々――」
そう言って物語を語るように、彼女はゆっくりと語り出した。
ある所に、一匹の狐がおりました。
狐に親はなく、他の狐と群れもせず、常に一人でおりました。他の狐よりも長くを生き、悠久の果てに神に仕える神使となっておりました。
狐は神使として、数多の生きとし生けるものに神の言葉を届けました。
神の言葉に従い、雨風を操ることもありました。
そうしていつしか、狐は望みを持ちました。
それは、とても小さくて些細な望みでした。
それは、誰にも応える事が叶わぬ望みでもありました。
誰にも告げられぬ想いを抱え、狐は虚ろに神使として在り続けました。
そんな狐を哀れんだのでしょうか。
ある日、神は狐に一つのお役目を与えました。
――この地を離れ、旅に出なさい。
新しいお役目に、狐は目を瞬いて。
それはそれは幸せそうに、ゆうるりと微笑みを浮かべて礼をしました。
そうして狐は当てのない旅に出ます。
神から頂いた、小さな灯り一つを持って。
狐の抱いた、望みに応えてくれるものを探して。
人間に紛れ、命の始まりから終わりまでを寄り添いました。
人間の望みに応え目覚めた妖と、言葉を交わすこともありました。
様々な場所に赴き命を見つめ、思いを聞き、そして数多を知りました。
けれどもどれだけ旅を続けても、狐の望みに応える存在は現れることはありませんでした。
狐は常に、ひとりきり。
これからもずっと、それは変わらぬものなのだと、狐は諦めかけてしまっておりました。
「諦めちゃったの?その望みって何?わたしじゃ応えられないの?」
「落ち着いて。話の途中だよ」
彼女の尾が背を撫でる。焦る気持ちが少しずつ落ち着いて、ほぅと小さく吐息が溢れた。
彼女を見つめる。金の瞳はとても静かで、彼女が何を思っているのかは分からない。
悲しんでいるのだろうか。それとも、悲しむこともできないくらいに、気持ちが沈んでしまっているのだろうか。
彼女の望みを考えてみる。ささやかで、それでいて誰にも叶えられないようなもの。
いくら考えても少しも思いつかず、彼女の役に立てないのだと、力なく耳を垂らした。
「話、続けてもいい?」
優しく囁く彼女の声に、返事の代わりに小さく尾を揺らす。
聞きたいと言ったのはわたしなのだから、最後まで聞かなくては。そう心の中で気持ちを切り替える。
「聞かせて」
彼女を見つめ願えば、静かな声が続きを語り始めた。
ある日。人間に紛れ、狐が学校に通っていた時のことでした。
一人の少女が狐に近づき、あどけない笑顔でこう言いました。
――ねぇ!わたしと友達になろうよ!
それは初めてのことでした。人間に紛れていたとしても、狐に近づく者は誰もおりませんでした。
狐は戸惑いに目を瞬き、そして少女から伸びる獣の影を見て得心が行きました。同じ獣同士。人間と群れるよりも、居心地が良いのだろうと。
しかし少女と友達となり、その関係が親友に変わってからも、少女が狐の正体に気づく様子はありませんでした。
無邪気に笑い、時に何かを悩み、戸惑いなく近づき触れる。
そのすべてが狐にとって初めてで、何よりも大切なものになっていきました。
それは少女が自分の正体を明かし、秘密の約束を交わした瞬間から、狐の望みを叶える期待となりました。
狐の望み。
小さくて些細な、けれども誰にも応えることが叶わぬと思われたもの。
少女と出会い、同じ時を過ごし、約束を交わして。
そしてようやく、その望みは応えられたのです。
「望みが叶い、狐の長い旅は終わりを迎えましたとさ。めでたしめでたし、ってね」
「え?望み……叶ったの?」
今の話のどこで望みが叶ったのだろうか。彼女を見つめるが、ゆるりと尾を振るだけ。
首を傾げて話の内容を思い返すも、よく分からない。ただ、彼女の話に出てきた少女がわたしのことだと察して、次第に落ち着かなくなってくる。
一緒にいることが大切だと言ってもらえた。そのことがとても嬉しくて、気恥ずかしい。
じっとしていられなくて、彼女から離れその場をぐるぐると回り出す。
「常盤《ときわ》」
静かな声に呼ばれて立ち止まる。彼女を見れば小首を傾げ、誘うようにゆるりと尾を揺らされた。
「おいで、常盤。側にいてよ」
大切な親友にそう言われてしまえば、離れる訳にはいかない。気恥ずかしさは残るものの、それを振り切るように彼女の元へ飛び込んだ。
暖かな尾に包まれる。優しく、けれどどこかしがみつくような力強さに、ふと思いついたことを口にした。
「ずっと寂しかったの?」
小さな呟きに、彼女は目を見張り、そして柔らかく細めた。甘えるように擦り寄られて、驚きに尾が揺れた。
「そうだよ。ずっとね、誰かとこうして寄り添ってみたかった。神使じゃなくてただの狐として、遊んだり、笑い合ったりしてみたかった」
どこか切ない声音。何も言えずに彼女を見つめれば、揺らぐ金の目と交わった。
寂しさが浮かぶ目だ。きっとまだ足りないのだろうと、彼女の目を見たまま問いかける。
「どうしたら寂しいのが全部なくなるの?」
小さく息を呑んで、彼女は迷うように視線を揺らした。
金色が、少しだけ色を落としてゆっくりと瞬く。少しして呟かれた言葉は、どこか不安に掠れていた。
「名前を呼んでほしい、かな」
意外な言葉に目を瞬いた。
それだけでいいのだろうか。そうは思うが、彼女が望むのならば叶えるべきだと、息を吸い込む。
「えっと……久遠《くおん》?」
「もっと」
「久遠」
もっと、と願われる度に名前を呼ぶ。その度に彼女の尾が揺れて、金の目がきらきらと煌めいた。
何だか気恥ずかしい。そんな気持ちはすぐになくなり、ただ嬉しくて仕方ない。
ふふ、と笑って彼女の名を呼ぶ。同じように名を呼び返してくれることが、とても幸せだった。
「ねぇ、久遠」
「何?常盤」
ふと思いついて、彼女を見る。
優しい眼差しに、願うように尾を揺らす。
「さっきのお話。めでたしめでたしで終わらせないでほしいの」
「どういうこと?」
「久遠の旅は終わったって言うけど、二人で一緒にいるのはまだ先があるでしょ。だからおしまいじゃなくて、続くにしてよ」
一人で続けた物語を、二人で紡ぐ物語にしてほしい。
わたしの思いを汲み取って、彼女が楽しげに笑った。
「じゃあ、次は常盤が話して。私と出会う前の常盤の話が聞きたい」
「そんなに話すことはないんだけど」
「それでもいいから。二人の物語にするなら、私と常盤の話を重ねないとね」
それもそうかと思いながら、記憶を巡らせる。
「本当に、話すことなんてほとんどないんだけどな」
小さく愚痴りながらも、ゆっくりと語り出す。
彼女とわたしの物語を重ねて、二人の新しい物語を紡ぐために。
20251130 『君と紡ぐ物語』
口を開き、息を吐き出した。
喉は震えない。ただ息が溢れ落ちるだけ。
「大丈夫。必ず治るよ」
優しく頭を撫でて姉は言う。それに小さく頷きを返すものの、それを心から信じられるほど子供ではなかった。
声は出ない。
きっと二度と歌えないのだろう。
喉に手を当て、何度か呼吸を繰り返す。
心配そうにこちらを見つめる姉に、へらりと笑ってみせた。
不思議と悲しみは強くはない。
声が出なくても、歌えなくても、生きていくことはできる。誰かに何かを伝える手段は、他にもある。
そんなことを思いながら、今にも泣きそうな姉へと手を伸ばし、そっと頭を撫でてみる。驚いたように目を見張った姉は、次の瞬間にはくしゃりと顔を歪めて一筋涙を溢した。
「馬鹿っ。私の心配じゃなくて、自分の心配をしなさい!あなたはいつもそうやって……」
言葉を詰まらせ俯く姉に戸惑い、慌てて頭から手を離した。恐る恐る顔を覗き込もうとするが、その前に腕を掴まれ強く抱き締められる。
「こういう時はね、泣いてもいいの。我慢なんてしなくていいんだから」
震える声に、苦笑する。
別に我慢をしている訳ではない。ただ本当に、悲しさがないだけだ。
代わりに胸の中にあるのは、不思議な安堵だけ。安らぎにも似た穏やかさだけだった。
姉の背をさすりながら、それが何故かを考える。すぐに出てきた答えに、密かに苦笑した。
これ以上歌いたくなかったのだ。ひとりきりで、届かない歌を歌い続ける苦しさに耐えられなかった。
いつも姉が褒めてくれる歌は、鎮魂の歌だ。本来ならばいくつもの響きが重なり、切なる祈りを紡ぐもの。
幼い頃は、何も知らずに歌えていた。けれどいつからか、歌と共に浮かぶ光景に、胸が苦しくて堪らなくなった。
優しい人たちが去っていく。歌声がひとつ、またひとつ減って、最後には何も聞こえなくなっていく。
白く鋭い煌めきを遮るように抱き締められ、空からいくつもの赤い花が降り続く。
ただの夢だと思っていた。けれども何度も見る夢は、繰り返す度に輪郭をはっきりとさせ、今では本当との区別がつかないほどだ。
誰かの記憶。歌に刻まれた光景が浮かぶ度に、本当は泣きたくて仕方がなかった。
「本当に頑固ね。このままだと、本当に泣きたい時に泣けなくなっちゃうわよ」
顔を上げた姉に額を小突かれて、肩が跳ねる。
姉の目に、涙はない。呆れたような、悲しむような目と視線が交わり、何故か後ろめたさを感じてしまう。
思わず視線を彷徨わせれば、姉は優しく微笑んで柔らかく抱き締めてくれた。
「無理に泣けって言っている訳じゃないけどね。いつも泣きそうなのに泣かないのだもの。今くらいは、声が出ないせいにして泣いてもいいと思うわ」
ひゅっと息を呑んだ。
何かを言わなければと口を開き、音のない吐息が溢れ落ちる。姉の眼差しに痛みを覚えて、逃げるように強く抱きついた。
「ごめんね。もっと早くに、歌わなくていいよって言えばよかった。歌に救われていたからなんて、なんの言い訳にもならないのに」
背を撫でる優しい手の温もりに、静かに目を閉じる。
暖かい。とくとく、と聞こえる力強い鼓動の音が、痛いほどに嬉しくて堪らなかった。
「いつも皆のために歌ってくれてありがとう。必ず治す方法を見つけるから、それまではゆっくり休んでね」
包み込まれるような温もりに、意識が微睡んでいく。
薄く開いた唇が吐息を溢す。ありがとうの言葉ひとつすぐに伝えられなくなったことに、ようやく気づいた。
一筋、頬を滴が伝う。遠く姉の歌声を聞きながら、ゆっくりと意識が沈んでいった。
不思議な夢を見た。
赤い花が咲き乱れる木の前で、誰かが歌っている。
辿々しい旋律。歌い慣れていないのだろう。時折音を、歌詞を誤っては、けれどそれを気にすることなく歌い続けている。
ここからはその表情は見えないが、歌声はどこか楽しげだ。その姿は時に霞み、花開くように輪郭を濃くしていく。歌に呼応するように花の赤が空に溶け出して、白くなった花がぽとりと地に落ちた。
空に溶けた赤は歌声となって、誰かの歌に重なり響き合っていく。花が落ちる度に誰かは受け止め、花の赤が歌へと変わっていく。
それをただ見ていれば、誰かがこちらを振り向いた。
懐かしい。繰り返し見た夢で抱き締められた温もりを思い出す。
花になった人。祈りにすべてを捧げるのではなく、祈る人々にすべてを捧げた優しい人。
誘われるように、足を踏み出した。ふらふらと近づいて、木の前で静かに膝をついた。
手を組み、目を閉じる。聞こえる歌声に重ねるように、口を開いた。
声は出ない。ただ吐息を歌に重ねていく。失ってしまった響きを、空に溶かしていく。
不意に肩に誰かの手が置かれた。目を開けて視線を向ければ、美しい着物を纏った姉が静かに微笑んでいた。
「我らの祈りを忘れず、その身に宿してくれたこと。その献身に深く感謝します。時代も立場も違えど、絶えぬ思いを知ることができ、とても嬉しく思いました……本当にありがとう」
促され、立ち上がる。歌い続ける誰かを見つめ、姉と共に深く礼をした。
「誰かのためにと無理をする必要はないよ。自分の祈りは終わったのだから、後は好きに生きるのが一番いい」
顔を上げた自分の前に、赤が抜けた白い花を差し出された。怖ず怖ずと花を受け取れば、寄り添う姉は再び礼をした。
「言葉は時と共に戻るだろう。けれど歌はどうなるかは分からない。この子は祈り終えてしまっているからね」
「ご慈悲に深く感謝致します」
凜とした姉の所作に、どこかの姫のようだとぼんやり思う。こちらに視線を向けて微笑んだ姉はとても美しかった。
「参りましょうか」
姉の言葉に頷いて、赤い花と誰かに背を向け歩き出す。
歌声が辺りに響き、それが見送ってくれるようで何故か胸が熱くなった。
「場所も時代も違えど、祈りは同じか。あの時の彼が知ったらどう思うのかな」
意識が沈む間際、小さな呟きが聞こえた気がした。
「おはよう」
微笑む姉に、頷きを返す。
声はまだ戻らない。それを少しだけ惜しく思いながら席についた。
「もうすぐ出来上がるから、待っててね」
マグカップを手渡す姉に、大丈夫だと笑ってみせる。頭を撫でて戻っていく姉の背を見ながら、湯気を立てるマグカップの中のホットミルクに息を吹きかけた。
姉は今日も忙しそうだ。それでもとても楽しそうにしている。
少し調子の外れた歌声に、思わず溢れた笑いを噛み殺す。代わりに、その歌にそっと吐息を重ね合わせた。
歌と息が響き合い、懐かしい旋律が部屋を満たしていく。
例え声が戻っても、歌うことはないのだろう。
それでも、こうして重ねることはできることが、今はなによりも幸せだった。
20251129 『失われた響き』
肌寒さに目が覚めた。
微睡む意識で、周りを見渡す。
まだ薄暗い部屋の中、カーテンが微かに揺れているのが見えた。
窓を開けた記憶はない。自分の他に窓を開けるような誰かもいない。
何故窓が開いているのだろうか。込み上げる疑問に、だが窓を確かめる気力はなかった。
体が鉛のように重い。気を抜けばすぐにでも瞼が閉じてしまいそうだ。
ぼんやりと、揺れるカーテンを見る。強く風が吹き込んだのか大きくカーテンが揺れ、僅かに外が覗いた。
薄暗く、寒々しい空。葉の落ちた木。窓の結露。
きっと、外は霜が降りているのだろう。
はぁ、と息を吐き出す。暗がりの中でも息が白に染まるのが見えて、小さく体を震わせた。
布団に潜り込むが、寒さは少しも和らぐことはない。逆に段々と体温が奪われていくようで、危機感を覚えて無理矢理に布団から抜け出した。
重い体を引き摺って、窓へと向かう。手を伸ばし、カーテンを引いた。
「――っ」
しん、と静まり返った外に、息を呑んだ。見慣れた景色がまったく知らない景色に見えて、訳もなくこの場から逃げてしまいたい衝動に駆られた。
僅かに開いていた窓に手を伸ばす。締めようと力を込めた手は、けれど何故か少しも動かない。戸惑いに手を離そうとするが、意思とは反対に手は勝手に窓を開け放っていく。
「なんで……」
呟いて、自分の手を見つめた。
不思議と恐怖はない。寒さで意識がはっきりとしていないからなのかもしれないが、自分にはよく分からなかった。
視線を手から窓の外へと移す。霜の降りた寒々しい光景に、ふとひとつの足跡を見つけ目を瞬いた。
「動物の、足跡?」
先が二つに割れた小さな蹄の跡。窓枠に手をかけ、身を乗り出すようにして足跡を見る。
見たことがあるはずなのに、それがどんな動物だったのかを思い出せない。思考がまとまらず、何を考えていたのかすらも曖昧になっていく。
はぁ、と息を吐けば、白い靄が空気に溶けていく。体は確かに寒さを訴えているはずだが、それすらもどこか遠く感じられた。
ふと、誰かに見られている気がして、顔を上げた。ゆっくりと周囲に視線を向ける。
誰もいない。あるのは葉の落ちた木々と霜と足跡。霜の白にくっきりと刻まれた、こちらに向かう蹄の跡。
彷徨う視線が、木とは違う何かを認めた。枝のようで、明らかに違う何か。それは獣の角のように見えた。
黒く濡れた瞳が、静かにこちらを見つめている。その瞳と目を合わせたまま、さらに体が前へと傾いでいく。
からん。
鐘の音が響き、弾かれたように体を起こした。
どれだけ時間が経ったのか。体はすっかり冷え切り、かたかたと震えて必死に熱を産生しようとしている。危機感を感じて、凍える指先に力を入れ窓を閉め鍵をかけた。
窓から見える空には、高く陽が昇っている。地面の霜は溶け、足跡一つ残ってはいなかった。
「夢……?」
どこからが夢で、どこまでが現実なのだろうか。改めて周りを見ても、何も見つけられはしない。
最後に見た瞳を思い出す。真っ黒な瞳。何もかもを見通すような、感情の乗らない獣の眼。
見極められていた。根拠のない確信に、寒さからではない震えを感じて、誤魔化すように暖房のスイッチを入れた。
そのままベッドに倒れ込む。じわりと暖まる部屋と体に、忘れかけていた眠気が込み上げ、小さく欠伸を漏らした。
今日の予定を思い浮かべつつ、このまま眠ってしまおうかと目を閉じる。すぐに意識が微睡んで、沈んでいく端でぼんやりと思う。
足跡はこちらに向かうものだけだった。もしかしたら、今もいるのだろうか。
からん、と鐘がなる。それを疑問に思う間もなく、意識が深く沈んでいく。
閉じた瞼の裏側であの黒く濡れた瞳を、その奥に広がる深い雪に沈む街の姿を見た気がした。
遠く聞こえる電子音に、沈んでいた意識が浮上する。
目を開ければ、見慣れない天井が目に入った。それを疑問に思いながら、視線だけで辺りを見渡した。
三方を仕切るカーテン。無機質なベッド柵。布団の下から伸びるいくつもの管。規則正しく波形を刻む何かの機械。
何故、と疑問に思いながら、重い体を無理矢理に起こす。途端に鳴り響くアラーム音に身を竦めていれば、こちらに近づく複数の足音が聞こえた。
呆然としている間にカーテンを開けられ、看護師たちが顔を覗かせる。僅かに目を見張り、慌ただしく行き交う様子をどこか他人事のように眺めていた。
様々な検査を受けながら、開け放たれたカーテンの向こう側の窓へと視線を向けた。
広がる青空に、厚い雲は見えない。視線を下ろしても雪の白はなく、いつもと変わらない無機質な街並みが見えるだけだった。
長い夢を見ていた気がする。どんな夢を見ていたかなど、起きてしまった今は霞み揺らいで、酷く曖昧だ。
雪を待っていたのだろうか。それとも雪に連れて行かれることに怯えていたのだろうか。
浮かぶ思いは、訪れた医師の言葉に消えていく。
どの質問に対しても首を振るしかできない。倒れる前に何があったのかどころか、今の自分の状態すらはっきりしない。
気づけば倒れていた。何日も目を覚まさなかった。原因は分からない。
与えられた情報からも、何一つ分かるものはなかった。
不意に眠気が込み上げ、瞼が重くなっていく。そんな自分に、医師は僅かに険しい顔をしたが、看護師にいくつか指示を出し去っていく。リクライニングを倒され横になれば、もう目を開けていられなくなった。
周囲の音が遠くなる。沈む意識の中、小さく体を震わせた。
今日は随分と冷え込んでいる。布団を被っていても、寒さを感じるほどに。
微睡みの中、思う。
きっと明日の朝には、霜が降りていることだろう。
20251128 『霜降る朝』
息を深く吸い込み、吐き出す。
ただそれだけの動作を繰り返す。
目はまだ開けられない。胸の鼓動は少しも凪ぎはしない。
気づけば苦しさに、胸の前で手を組んでいた。きつく組んだ手の熱に、そのまま溶けていきそうな錯覚を覚える。
薄く目を開ける。組んだ手に視線を向け、その滑稽さに乾いた笑いが込み上げた。
目を閉じ、胸の前で手を組むその姿。
それはまるで、祈りを捧げているように思えた。
目を閉じて、自嘲する。
何を祈ることがあるのか。今更誰に祈りを捧げるというのか。
空っぽになってしまった自分には、もう何もない。あるのは埋まらない欠落のみで、そこに願いは存在しない。
深く息を吸い込み、吐き出した。
きんと冷えた空気が、肺を満たす。痛みすら覚えるその冷たさに、浮かぶ感情が凪いでいく。
けれども感じる胸の鼓動は変わらないまま。速くもなく遅くもないその規則正しさが、苦しくて堪らない。
「誰か……」
喘ぐような呼吸に紛れ、無意識に呟いた言葉が鼓膜を震わせる。
まるで子供のようだ。ぼんやりとした意識で、そう思う。
きつく組んだ手を伸ばせず、立ち尽くしたままどこにも行けず。それでも誰かが気づいて、手を差し伸べてくれることを待っている。どこまでも他力本願な自分に、吐き気がしそうだ。
息を深く吸い込み、吐き出した。
それだけで何もかもが鎮まっていく。
残るのは、鼓動と呼吸。決して止まることのない二つだけ。
不意に、空気の流れが変わった。
自分の横を、誰かが通り過ぎていく。そんな感覚に、小さく息を呑んだ。
目は開けられない。誰がいて、誰がいないのか。まだ見る勇気がなかった。
目を開ける代わりに唇を噛みしめれば、背中に仄かな温もりを感じた。
優しく、愛おしいその温もり。ふわりと薫る懐かしい匂いに、鼓動が跳ね呼吸が乱れる。
背中を包み込むように、後ろから抱き締められている。
いつもそうだ。一人で泣いていれば必ず気づいて、こうして泣き止むまで抱き締めてくれた。
慰めの言葉はない。ただ泣き止むまで、側にいる。それだけで不思議と悲しみは消え、涙の代わりに笑みが溢れていたことを思い出した。
「――大丈夫だよ」
掠れた声で呟いた。泣くのを堪えた、か細い震えた声。
届いたかは分からない。それでも伝えなければと、息を吸い込んだ。
「大丈夫。ちゃんと一人で歩けるから。もう手を引かれなくても、迷ったりはしないから」
だから大丈夫。
そう繰り返せば、優しい温もりが頭に触れた。褒めるように撫でられて、耐えきれず一筋頬を滴が伝う。
息を深く吸い込み、吐き出した。
きつく組んだ手を、ゆっくりと離していく。凪ぐことのない胸の鼓動が、穏やかに旋律を刻んでいく。
温もりが離れていく。とん、と背中を押されて、一歩足が前に出た。
「ありがとう」
笑みを浮かべ、感謝の言葉を口にする。
最後まで優しい人だった。
自分を導き、守ってくれた唯一。
もういない。
「大丈夫。一人で歩けるよ」
息を深く吸い込んで、吐き出す。
顔を上げて、閉じていた目を開けた。
「――っ」
網膜を焼くような、色彩の鮮やかさに息を呑んだ。
手を引かれていた時には分からなかった。それだけ自分の中の世界は狭かった。
澄んだ空の青。赤や黄に色づいた葉。枯れることを知らない山の緑。
「あぁ……」
思わず声が漏れる。
世界は美しいのだと、いつか言われたことを思い出す。
あの時は、信じていなかった。世界とは怖ろしく、醜いものでいっぱいなのだと、根拠もなくそう思っていた。
今になって、一人きりになってようやく理解した。
息を吸い、吐く。
冷えた空気が胸を刺した。
痛みすら覚えるその冷たさ。その中に懐かしい匂いを感じて、涙の代わりに笑みが浮かぶ。
一歩、足を踏み出した。さくり、と落ち葉が音を立てる音すら美しい。
前を向いて歩き出す。目を閉じることも、手を組むこともしない。
無条件に差し伸べられる手を失った今、祈り、誰かの助けを待つことはない。
「大丈夫。世界は綺麗なんだから」
呟けば、そっと風が過ぎていく。
冷たさに混じる、どこか甘さを感じる匂い。吸い込んで吐き出せば、それだけで心が軽くなる気がした。
20251127 『心の深呼吸』