クマムシ、っているじゃないですか。
体長2mm以下の立派な多細胞動物で卵生。パッドみたいな足が8本ある。
あれって数万気圧とか、絶対零度にも耐性があるとかいうすごいやつで、いったいタンパク質どうなってんだろうレベルなんだけど、あとはスリープモードになれば何百年後でも再覚醒できるらしい。それなのに、なぜか寿命は普通に半年らしい。
人間の下世話な思惑だけど、過酷な環境に耐えて、数百年をタイムリープして、半年間で一体何がしたいんだろうとも思ってしまう。
それならば、休眠しちゃった方がずっと長生きだろうとも思うんだけど、でも代謝まで止まった休眠状態って、死んでんのとあんまりかわらないような気もする。
死にたくないと思うのかは分からないけど、あとは半年の活動期間で、美味しいものを食べたり生命を繋いだりってこと??
「愛」って、たぶんあなたが大事な方を思っている時のあの感情の動きでいいんだと思います。おそらくきっとたぶん、あれ。
でも動画サイトなんかにときどき出てくるスピリチュアル系、特に日本の新進のスピリチュアルさんは、その原動力が「愛」だとしているのがほとんどで、そういわれるとなんとなく納得しちゃうんだけど、そこからその人の書いたものを見たりしても、その愛はがどんなものなのかがわからない。
むしろ欧米のloveの概念を日本語にするときに「愛」をあてたんだと思うんだけど、あちらではもともと性行為の意味まで含めてるし、スピさんの愛がそこまで含んでいるとは思えないし。
相手を使用したい(それこそ性愛)とか、専有、所有したいという願望は、達成された段階で消滅したり、そのうち飽きて相手を飼い殺しみたいにしたりして、相手を消費して可能性を潰してしまう。これは充足を目的とした「欲望」で、たぶん違う。
まあ、あくまで個人的なはずの多様な感情なのに、さらに欧米の広い概念を輸入してそれを表現したんだから、そりゃ分かりにくい。
だいたい「愛」の字って、甲骨文では使われてなかったらしい。五教の「周易」には「愛悪」という用例があって、文面からは「好ましいー(どうでもいい)ー憎悪」の関係の中での好ましさ。そこから仏教の執着・欲望を「渇愛」と訳したらしい。
日本で使われていたのは「愛し(かなし)」とか「愛し(いとし)」の形容詞で、「かなし」の背景には「愛おしすぎて痛いほど切ない」みたいなエモい性格があったよう。むしろ相手を大切に思う感情には「情」、性愛には「色」が使われていた、とwikipediaが言ってた。
でも直江兼続の兜には「愛」があったじゃん、とも思ったけど、あれは「主君や民や味方や敵にも大切に情けをかけよう」とかいう博愛よりも、主君の謙信の「毘」に呼応した「愛宕権現」もしくは「愛染明王」の愛なんだそうだ。ちなみにあれ、作ったのは謙信で、直江兼実に下賜したらしい。
すると、執着・欲望で消費してしまうのではなく、まずは害さない、意識を常に開いておく、ちらちらと配慮する、さらに愛でつつ育てましょう、ぐらいが基本なんだろうけど、これじゃ親だし、相手も「あなた」に限らず広くいろいろ。
でも、本気の性愛が真実ではないとは言っていないし、お互いに消費しあって、犠牲になりながらも長年ぐだぐだの腐れ縁、みたいなのも「愛」のかなりの本質なんじゃないかとも思うけど、自分にはしんどい。
もしも地球が自転してなかったら、どうなる?
とか考えませんよね、ふつう。
ちなみに、年間180日ぐらいは太陽が沈まない昼、180日分ぐらいが太陽が見えない夜になるわけで、つまり今の365日分が1日になる。
(地球の公転が北極星の方から見て反時計回りってことは、ひょっとしたら太陽は西から昇るような気もする。)
これだけでは済まなくて、すると赤道付近では、特に今の夏至にあたる「正午」ごろは、日が沈まないのでどんどん加熱されてヒトが存在できなくなる。もちろん夜が180日分続けば、地球の裏側では極寒で、たぶん氷河になるので、これでは植物も生きていけない。
するとヒトは、陽があたっても暑すぎないような、太陽側から見た環状の地域(たぶん今の温帯よりもさらに狭い)を、365日サイクルで移住していかなければ生きていけないので、まず定住や農業は無理で、放牧みたいのならできるかもしれない。
もちろん、「正午」の時期の赤道周辺の地域から、加熱された大気と海面・地表の水蒸気が上昇するので、それが地球の裏側に対流していく。すると昼と夜の境目あたりになる環状の地域では、冷えた水蒸気で雨ばかり。地表面では、周辺から風が吹きこんでいる。
海と地表面の降水は、180日分の夜で凍ってたぶん氷河になる。そして、陽が当たり始める西側から溶け始めて、あちこちで氷山が瓦解してたり、海には流氷が流れてたりする。
いやいや、そもそも移動速度が遅い初期の生物たちは、たぶんこの環境では移住しながら進化できないんじゃないかな。
そうすると、太陽が特に何かを配慮してくれてるわけではなくて、かなりの部分は周囲で地球やら生物やらが勝手に居心地よくしてるのだけど、それでもお天道様は偉大で文句を言ってはいけませんね。さういう太陽みたいに私はなりたい。
(さらにもしも公転もしなかったら?って考えました?そうなんです、実は地球が公転やめると…遠心力がなくなるので、太陽の重力に取り込まれてしまうんですね、怖い怖い。)
*ここで現実問題として、もしも地球が、放射能汚染か温暖化か新自由主義(実は選良思想)や反知性主義(実はアナキズム)の集団のせいで住めなくなって、やっと見つけたちょうど良い温度条件の星が...自転してなかったら。
ヒトは原則として移住で狩猟採取・放牧になっちゃうし、そこで今のライフスタイル維持していくには、農地や設備を含めてどこまでコミュニティを移動できるかになりそう。もちろん、巨大なトレーラーみたいなので狭い地表面を移動してると、当然人類は縄張り争いから相互殺戮を始めるので、地表は放棄して、ガンダム風の大気中を移動する大型のフロート・プランテーションがいいと思う。赤道付近に太陽光パネルを並べればいいんだし、移動も楽で、気候条件の影響も受けにくい。
0は基準点、1は基準量なので、0と1は恣意的に決めてもいいはずで、それが最初ならば現象はいつ、どこから、どれくらいを基準にして取り組んでもよいはず。
でも、音楽だけは違って、何かの音(例えばド)の周波数の波の中に、2つの波が入ると音がうねらずに調和して高いドになる。同様に、波が1.5個でも調和してこれがソなんだけど、今度はこのソを1.5倍してレ、レを1.5倍でラ、からのミ(ドの4/3倍)、からのシ、からのファからドに戻る。オクターブをずらして並べると音階になるらしい。こればかりは、周波数がズレると音がうねっちゃうので、きっちり整数比関係が基本になる。
だから音楽は、基準点0(ド)が決まれば、基準量1(高いド)も決まってしまう。
でもそれなら基準になる「ド」は恣意的に決めてもいいはずなんだけど、ここで絶対音感とかいう血鬼術みたいな特殊能力があって、不思議なことに絶対音感遣いの人たちは、音程が食い違わない。同じ音を聞いても、ある人はド、他の人はシだとかは言わない。
何なんだ絶対音感と思っていたら、絶対音感の人たちがラの音が440 Hz (A=440 Hz)で共通しているのは、どうやら3-6歳ぐらいでA=440 Hの音程でドレミファを同定する生活をしてきたらしくて、実は後得的な能力なんだそうだ。ここでA=440 Hzってのは、1860年からフランスがA=334 Hzにしてたのが、1834年にドイツが440を提唱したらしい。
さらに現代のA=440の絶対音感の人たちは、昔の音程設定の違う楽器とかを演奏すると、気持ち悪いんだそうだ。
だから、絶対音感のあの友人が3-6歳の頃にそんなおハイソな環境で育っていたなんて思いたくもないし、そもそも絶対音感とかいっても、ヒトが設定してるようじゃそんなの絶対じゃないじゃん。しかもいい年齢になっちゃうと、もう人を喰ったぐらいじゃ身につかない血鬼術らしい。
ということで、基準点も基準量も自由で恣意的なものじゃなくて、基準点は19世紀にヒトが決めたもの、基準量は基準音の周波数で決まってしまうものだった...
(とか、wikipediaとChatGPTが言ってた)
同情って言葉、どんな由来があるんだろうと思って、いつもの『言海』を見たんだけど、「同情」が「どうじょう」なのか「だうじょう」なのか「どうじゃう」なのか「だうじゃう」なのかが分からなくて、どれも出てこなかったからたぶん載ってないんぢゃないのかな。(どうぢゃう、でわないと思う。)
これはもう自分の限界で、「歴史的仮名遣い」を知らない。そもそも、明治政府が整備した歴史的仮名遣いを普及させたのも『言海』らしいのだが、やっぱすごいなあの辞書。
もう今では、鏡花とか露伴以前に漱石や鴎外でも読めない人が増えてるらしいけど、さらに手書きの行書体とかで読んでた近世以前の人たちとか、すごいなと思う。殿様の手紙の字が読めなくて誤読しました、とかで切腹じゃ洒落にならない。
しかし簡体字になっちゃった中国人も、自国の昔の古典とか読めてるのかね。
ちなみに『明解さん』によれば、きちんとした歴史的仮名遣いは「ドウジャウ」だと書いてあって、「差し迫って困っている相手の苦しみ・悩みを、相手の立場に立って理解し、そのうちに よい運がめぐってくることもあるのだからあまり悲観的にならないようにという気持をいだく(言動に表わす)こと」なんだそう。つまり「あんまり気にするなと思うだけ」のことらしい。これでは他人事すぎるので、関与できる人には「なんかした方がいい?」と聞いてみたりもする。それがお金の場合は、相手と状況と金額の条件がかなり揃えば検討することもある、稀に。