〈君を照らす月〉
一人の旅人が森の中を歩いていた。日はとっくに沈み、道を示すものは朧げな月明かりだけだ。彼が一歩踏み出すと、森が終わり開けた場所に出た。
何処からか歌声が聞こえてくる。喜んでいるようにも、悲しんでいるようにも、怒っているようにも聞こえる不思議な歌だ。不気味で、そして美しい。彼は自分でも気づかぬうちに歌に夢中になった。脳が命令するより先に足が一歩一歩進んでいく。
彼は一本の木の後ろに、一人の女性が月明かりに照らされて歌っているのを見つけた。彼女は歌そのものだ。目の前のミステリアスな美女は彼が手の届く距離まで近づいた時、ついに歌を止め、口を開いた。
「来てくれてありがとう。さようなら。」
哀れな旅人がその意味を理解する前に、銀の剣が彼を貫いた。
「ただいま。今日も獲れたわよ。」
女性が洞窟の中に向かって言った。左手で魂の抜け殻となった旅人を引きずっている。
「最近豊作ね。これでしばらくは食べ物に困らないわね。」
彼女の妹が答えた。
「それにしても、ちょっと歌うだけですぐに来るなんて、人間は単純よね。」
「ええ。月明かりの下では何でも魅力的に見えるって教わらなかったのかしら。」
二人の女は笑った。その顔は不気味で醜く、とても美しいとは言えないだろう。
〈ささやかな約束〉【途中】
「わあ!このパイすごく美味しい!」
小さな女の子がフォークを片手に小さな足をパタパタとしながら喜んだ。
「そうか。そんなに喜んでくれるなら頑張って作った甲斐があったな。」
父親は彼女に微笑みかけた。
「お父さん、これまた作って!」
「ああ、勿論。約束だ」
「やったー!約束だね」
彼女が細い薬指を差し出してきたので指切りをした。
「もし作ってくれなかったら針千本…は怖いからお父さんの万年筆貰っちゃうからね」
彼女がそう言うので二人で笑った。
彼女は彼の実の娘ではない。戦争で亡くなった兄の子だ。だが、当時彼女はあまりにも小さかったので実の親のことは覚えておらず、彼のことを本当の父だと思っている。彼女が大きくなったら話すつもりだ。
翌朝、彼女を託児所に預け、彼はいつものように少し離れた町にある農場へ向かった。給料はそれほど多くはないが農場主は親切で子育てにも理解があり、良い職場だ。仕事を始めるとけたたましく鐘が聞こえてきた。
「敵襲だ!」
彼らは鋤を投げ捨てて逃げ出した。街では人々が逃げ惑っている。あちらこちらで叫び声が聞こえた。
〈祈りの果て〉
そのシスターは誰よりも信心深かった。毎日毎日朝も夜も神の像の前で手を合わせた。そうすれば神は人類を見てくれると思っていた。皆の願いが届き、それが叶えられると信じて疑わなかった。
だが、どんなに祈っても状況は変わらない。戦争で多くの人が命を落とした。飢餓は幼子の命までも無慈悲に奪った。彼女が食事を抜いてまで祈った時でさえ、救いたかった尊い命は消え続けた。
戦禍を恐れ、他のシスター達は皆教会を去った。ついに彼女も祈りを止めた。こんなに努力しても祈りが届かないのならば、きっと彼女が信じる神は居ないのだろうから。
次第に彼女はおかしくなっていった。希望は消え、もう何も信じられなくなった。
ふと、素晴らしい考えが頭に浮かんだ。神がいないのならば私が神になれば良いじゃないか。私が神の代わりに願いを叶えれば良いじゃないか。
彼女が新しく作った宗派には良い人々は集まらなかった。祈りに来たのは神を信じない者達、つまり神に逆らう悪しきことを考える者達だけだった。
「あの人に不幸が訪れますように!」
「その願いは必ず届くでしょう。我らの神はいつも見ていますから。」
ある男は願った。彼女はその人の幸せを色々な手で壊した。信者の願いは必ず叶えると誓ったのだから。その男は喜び、彼女に感謝した。
「あいつが消えますように!」
ある女は願った。女の目は正気には見えず、悪しき欲望にぎらぎらと光っていた。
「その願いは必ず届くでしょう。我らの神はいつも見ていますから。」
彼女は女の代わりにその人を消した。女は敵の突然の死に喜び、彼女に感謝した。これまで人々の命のためにどんなに祈っても聞けなかった感謝の言葉。その言葉に彼女は快感を覚えた。
祈りの果てにたどり着いたのは、願いを叶える神との出会いでは無く、悪しき願いのみを叶える悪魔の誕生だった。
〈心の迷路〉
テスト期間に入り、勉強しよう!と思った途端、
私の心に迷路が現れた。
入り口のところから道は幾つにも分かれている。
数学、英語、物理、生物、国語…
一体何処から進めばいいんだ?
とりあえず苦手な数学から行こうと思ったけれど、
障害物が多くて進めそうも無い。
道を曲がって英語に行ってみる。
あ、これ前見た映画に使われてた構文だ!
あの映画、面白かったな。
あの展開は予想外だったけど…
ちょっとスマホで調べてみよう。
そうこうしているうちにテストまでの制限時間は
どんどん迫ってくる。
遠くに見えて来た出口に書かれた文字は「赤点」。
やばい、サボり過ぎた、と道をかけ戻るけど、
もう「目標点達成」の出口は見つかりそうも無い。
勉強方法が分からない。次のテストどうしよう。
〈ティーカップ〉
私、ティーカップ。それも普通のカップじゃないわ。ツヤツヤした白い体に繊細な花の模様、縁は上品な金色。私は結婚祝い用の特別なティーカップなの。
あの人に出会ったのはもう何十年も前。色違いのボーイフレンドと親友の受け皿と一緒に新婚の夫婦に使ってもらえることになったの。元々いた倉庫に比べたらずっと小さいけど、温かみがあってとっても素敵なお家だったわ。私は旦那さんの、ボーイフレンドは奥さんのカップになった。旦那さんは紅茶が大好きで、毎日私を使ってくれたの。勿論お手入れもしっかりね。それに、美味しそうに紅茶を飲むあの人を見れてとっても嬉しかった。奥さんは旦那さんほどは飲まなかったから、ボーイフレンドはいつも羨ましがってたわ。
でも、いつからか私はあんまり外に出されなくなった。時々使ってもらえる事もあったけど、あの人の顔は昔の様に笑顔じゃなくて、なんだかすごく具合が悪そうに見えたわ。あの人が心配で食器棚で泣いてたら優しいボーイフレンドと親友は慰めてくれたけど、不安な気持ちは消えなかった。
遂に私は全く外に出されなくなった。時々使われるボーイフレンドにあの人の様子を聞いてみたけど、帰ってくる答えはいつも「今日はいなかった」だった。だんだん私は分かっていった。あの人にはもう使ってもらえないのだと。もう会えないのだろうと。
ある日、私達は久しぶりに棚から下ろされた。でもいつもの様にお湯を入れるのではなく、不気味な暗い箱に入れられたの。もう本当に怖かったわ。何も見えなかったけど、ガタガタ揺れたりけたたましい音が聞こえたりしたから、きっと私は捨てられるんだわ、と思って暗闇の中でこっそり泣いたわ。
でも、箱から出された時に私がいたのは恐ろしいゴミ箱じゃ無くて、見知らぬ家だった。前の程じゃなかったけど中々素敵だった。
「ほら、これ持って来たよ。お父さんが好きだったやつ。あなたが大事に使ってあげなさい。」
奥さんが言っているのが聞こえた。すると、優しい手が私を包んだの。
「ありがとう。大事にするね。」
聞き覚えがある、女性の声が聞こえた。あの人が紅茶を飲んでる時に時々聞こえていた声だった。私はあの人の娘のカップになったの。
彼女はあの人そのものではないけれど、どこかあの人に似ていた。彼女も紅茶が好きで私をよく使ってくれたし、あの人と同じぐらい大切に手入れしてくれたわ。またあの時の様な幸せな日々が戻って来たの。
悲しいけれど、人は私たちの様にずっと生きていることは出来ないみたい。でも、彼らが私達を大切にしてくれている間は私も彼らのために自分の役割をずっと果たそうと思うわ。