結城斗永

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12/21/2025, 1:39:53 AM

タイトル『記憶の仕立て屋』

 石畳の路地裏、街灯の光も届かないような場所にある小さな店。ここで僕は、時間の繋がりがほつれてしまった記憶の断片を、特別なリボンで繋ぎ合わせる『記憶の仕立て屋』をしている。

「失礼するよ」
 カウベルの乾いた音と共に、一人の老紳士が店に入ってくる。僕は作業台から顔を上げ、彼を出迎えた。
 老紳士の名はエド。彼はここのところ、週に一度はこの店を訪れている。

 エドは、ゆっくりとした手つきで、テーブルの上にいくつかの『光の欠片』を置いた。それは、ビー玉ほどの大きさで、淡い光を放つ記憶の断片だ。
「今日は、これをお願いしたくてね。……最初の形が分からなくなってしまった」
 僕はその欠片を拾い上げ、ルーペで覗き込む。
「先月修繕した箇所のようですが、リボンの劣化が随分と早いですね」
「今朝は妻の名前を思い出すのに、三十分もかかってしまった。いまでは今朝の食事すら思い出せん……」
 エドは自嘲気味に微笑んだ。

 記憶の断片を綴じ合わせるために使うのは、特殊な『時の糸』で織られたリボン。時間の繋がりを失った記憶を結んで、一連の物語として心に定着させるのが僕の手腕の見せ所だ。
 僕は引き出しを探って、一本のリボンを選び出す。
「前回より分厚いリボンを使ってみましょう。これで、結婚式の日と、娘さんが生まれた日の記憶はより強く結びつくはずです」

 僕は指先に意識を集中し、リボンの端を記憶の欠片の裂け目に通して縫い合わせていく。リボンが通るたび、店の中に柔らかな香りが漂った。しっとりと地面を濡らす雨、教会の庭に咲く花、赤ん坊の産着の匂い。
 エドの瞳に、わずかな輝きが戻っていく。
「妻は長らく子を授からなくてね。それでも二人で祈り続けたのさ。娘の誕生日はとても穏やかな日でね……」
 記憶が結ばれるたび、エドの語り口は滑らかになっていく。

 しかし、作業の終盤、思わず手が止まった。
 最後の一つ、エドが「最も大切だ」と言っていた、妻との最後の旅行の記憶を繋ぐためのリボンが、どうしても足りないのだ。
「おかしいな。計算では足りるはずだったのですが……」
 僕は困惑した。記憶の損傷が予想以上に激しく、リボンを使いすぎてしまったのだ。棚を探しても、エドの記憶に馴染むような、深い愛情と哀しみを含んだリボンはもう残っていない。
 リボンで繋がれなければ、この記憶は明日には消えてしまう。それはエドにとって、妻が最後に残した微笑みを失うことを意味していた。

「リボンがないのかい?」
 エドが静かに尋ねた。僕は唇を噛み、頷いた。
「申し訳ありません。私の手落ちです。他のリボンでは、あなたの記憶を傷つけてしまう……」
 エドは少しの間、考えるように黙り込むと、やがてコートのポケットから何かを取り出した。
「……これを使ってくれないか」
 彼の手の中には、夕焼けを溶かしたような、優しいピンク色のリボンがあった。
「それは……?」
「妻が、若い頃に髪を結んでいたものだよ。彼女が亡くなった後、形見として持っていた。……これを糸にして、私の記憶を縫い止めてほしい」
 僕は息を呑んだ。『時の糸』で織られていないリボンを記憶の綴じ合わせに使うことは、仕立て屋としての禁忌に近かったからだ。
 物が持つ強い記憶や愛着が、持ち主の精神を飲み込んでしまう恐れがある。
「危険です。もし、あなたの意識がリボンに残った奥様の思念に引っ張られてしまったら……」
「構わないよ。彼女を忘れて生きるよりは、彼女の近くにいられる方が、私にとっての救いだ」
 エドの目は真剣だった。僕は覚悟を決め、そのシルクのリボンを細く裂き、針に通した。
 リボンが記憶の欠片を貫いた瞬間、店の中に、言葉にならないほどの愛おしさが溢れ出す。

 ――あなた。忘れてもいいのよ。私はいつもここにいるんですから。

 それはリボンに染み付いた『妻の想い』だった。僕の手の中で、二人の人生が、時を超えてひとつに結ばれていく。
 最後の一針を終え、リボンを固く結んだとき、店内を光が包み込んだ。

 しばらくして、しっかりと綴じられた記憶を胸に、寝息を立てるエドの表情は、ここ数ヶ月で最も安らかだった。その記憶の真ん中には、あのピンク色のリボンがしっかりと通っていた。
 目を覚ましたエドは不思議そうな顔をした。
「……おや。私は何をしていたのかな?」
 僕は微笑んで、静かに答える。
「大切な贈り物の包装を、やり直していたのですよ」
 エドは自らの胸元をしばらく見つめた後、思い出したように記憶を抱えて店を出ていった。彼は既にここに来た理由すら覚えていないかもしれない。でも、あの胸に抱えた妻の記憶だけは、決してほどけることはないだろう。

 人の記憶は儚く、そして重い。それでも人は、忘れるまいとして誰かのもとを訪れる。
 もしも手の中でほどけかけている記憶があれば、僕はそれに合うリボンを探して再びきつく結び直す。ただし、僕にできるのはそこまでだ。何を結び、何を手放すかは、いつも持ち主自身に委ねられている。

#時を結ぶリボン

12/18/2025, 5:29:19 PM

※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
タイトル『ガラクタの勇者(前編)』

 俺の名前はレン。ミユキがつくったこの『こころ』っていう世界で、一番の嫌われ者だ。
 空を見上げると、今日もミユキの気分を映したみたいな、ふわふわしたピンク色の雲が浮いている。街の広場じゃ、ミユキにとっての『理想の人たち』が、お行儀よくお茶を飲んだり笑い合ったりしている。

 アイツらは、ミユキが『こうだったらいいのにな』って願った、優しさだけでできたお人形だ。誰の悪口も言わないし、いっつもニコニコして。正直、見てるだけで反吐が出る。 
 俺みたいな、ボロボロのコートを着て、煤けた剣を持ってるガキは、アイツらにとっちゃ『綺麗な世界』を汚すゴミなんだろう。俺が街の端っこを歩くだけで、みんな一瞬だけ、嫌なものを見るような目で俺を睨んでくる。
「……ケッ。勝手に見てろよ」
 俺は唾を吐く真似をして、世界の隅っこにある物置小屋に引き返した。

 ここは、ミユキがもう見たくないものを詰め込んだゴミ捨て場だ。
 片目の取れたクマのぬいぐるみ、途中で描くのをやめたスケッチブック、友達に書いた手紙、それから……『正義感』の姿をした俺。

 こう見えても、俺も昔は人気者だったんだぜ。
 ミユキがまだ小学生だった頃、俺はキラキラの鎧を着たヒーローだった。ミユキが新聞紙の剣を振り回して、悪者退治の真似をすれば、俺も一緒になって大剣を振るった。
 ミユキが正義感から「そんなのダメだよ!」って勇気を出して言えば、俺の剣も太陽みたいに光った。あの頃は、俺がこの世界の主役だったんだ。

 だけど、あの雨の日のせいで全部ぶち壊しになった。
 友達が嘘をついているのを、ミユキは先生に教えた。正しいことをしただけなのに、次の日からミユキは『ヒーロー気取り』って呼ばれて、仲間外れにされた。
 ミユキはボロボロ泣いて、心に鍵をかけたんだ。
『正義なんていらない。正しいことなんて言わなきゃよかった』
 その瞬間に、俺の鎧は真っ黒に錆びて、俺はヒーローから『不幸を招く不吉なガキ』に格下げされたってわけ。
 
 俺は今、あの日ミユキが物置小屋に捨てたダッフルコートを羽織っている。それまではお気に入りだったのに、見るだけであの日を思い出すんだってさ。
 俺はぶかぶかのコートの袖をまくって、小屋の隅っこに座り込んだ。
 街で戯れてるアイツらは、今この瞬間も、ミユキが現実でどれだけ苦労してるか分かってない。アイツらは『楽しい妄想』だから、ミユキの辛い気持ちなんて理解できないようにできてるんだ。おめでたいよな。

 でも、俺には分かる。
 ミユキが辛くなると、あの雨の日みたいにコートの袖がじわじわ湿り始めるんだ。
 ほら、今もだんだんと空のピンク色が、ドロドロした嫌な紫に変わっていく。足の裏から、嫌な振動が伝わってくる。
「……チッ。また来やがった」
 俺は壁に立てかけてあった、錆びた剣を掴んだ。

 ミユキは今、会社かどっかで、誰かにめちゃくちゃなことを言われてるんだ。でも、ミユキは言い返さない。「すいません」って顔をして、心の中で俺を、この物置小屋の奥へもっと深く押し込もうとする。
『怒っちゃダメ。正義感なんて出しちゃダメ。笑ってやり過ごさなきゃ』
 ミユキがそう思えば思うほど、俺の小屋の扉には重たい錠前が増えていく。
 
 だけど、ミユキがどれだけ俺を消そうとしたって、無理なんだ。
 彼女の中に溜まった『嫌だ!』っていう気持ちが、黒い霧になって街に溢れ出そうとしてる。あのお人形たちじゃ、あんなの触れることさえできない。
 俺は一人で、ガラクタの山を蹴飛ばして外に出た。
 誰も俺を助けない。誰も俺に『ありがとう』なんて言わない。それどころか、俺が戦えば、ミユキは『どうして私はこんなにイライラしちゃうんだろう』って、また自分を嫌いになる。
 バカバカしいよな。嫌われ者の俺が、俺を嫌ってる主人のために戦うなんて。
「……さっさと終わらせるぞ」
 現実のミユキが飲み込んだ『怒り』が、もうすぐ目の前まで迫っている。あの真っ黒な魔物からこの世界の光を守れるのは、俺しかいない。
 俺は錆びついた剣を握り直し、目の前に広がっていく闇を胸の底から強く睨みつけた。

〜『ガラクタの勇者』前編 了〜
後編はnoteに挙げます🙇

前編→https://note.com/yuuki_toe/n/na97f592d7c58
後編→https://note.com/yuuki_toe/n/n28f5061f4d75

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#心の片隅で

12/18/2025, 7:31:38 AM

タイトル『喧騒は雪の中に』

 世界は、濁った音に溢れていた。
 渋谷駅のハチ公口改札前は、帰宅を阻まれた人々の怒号と、駅員が繰り返す無機質な謝罪のアナウンスがぶつかり合い、粘り気のある熱気に包まれていた。スマートフォンの通知音があちこちで電子的な悲鳴を上げ、誰かが撒き散らした苛立ちが、湿ったコートの匂いと共に充満している。

 二十八歳の冬、木下徹は、その喧騒の真ん中で立ち尽くしていた。
 手に持ったスマートフォンには、先ほど届いたばかりのメールが表示されている。三年かけて準備したプロジェクトの白紙撤回。そして、それと歩を合わせるように届いた、恋人からの別れを告げる短いメッセージ。
「……うるさいな」
 独り言は、誰かの怒鳴り声にかき消された。
 自分という存在が、都会の膨大なノイズの中に溶けて、薄まっていくような感覚があった。自分の声すら自分に届かない。徹は逃げるように人混みを掻き分け、スクランブル交差点へと踏み出した。

 その瞬間だった。
 視界の端で、雪が一枚、やけにゆっくりと落ちてきて、徹のまつ毛に触れた。
 冷たい、と感じた刹那。
 カチリ、と頭の中でスイッチが切り替わる音がした。
 すべての音が、消えた。
 いや、物理的に音が止まったわけではない。信号待ちで苛立つ車のクラクションも、大型ビジョンで流れる派手な広告映像も、背後で誰かが転んだ音も、すべてはそこにある。しかし、それらは徹の鼓膜に届く直前で、深々と降り積もる雪に吸い込まれ、霧散していった。

 徹は、交差点の真ん中で立ち止まった。
 周囲を見渡すと、スローモーションのような光景が広がっていた。口を大きく開けて誰かに詰め寄る男。不安げに肩を寄せ合う女子高生。彼らは懸命に何かを発信しているが、徹にはそれらが無音の映画のワンシーンに見えた。
 ――ああ……静かだ。
 次の瞬間、徹の感覚は異常なまでの鋭敏さを持って覚醒した。
 今まで聞こえなかった音が、驚くほど鮮明に脳内へ流れ込んでくる。

 サクッ。
 自分のブーツが雪を踏みしめる、微かな、しかし力強い感触。
 ビルの隙間を縫う風が、複雑な旋律を奏でながら通り抜けていく音。
 そして、何よりも。
 自分自身の心臓の鼓動。

 それは、世界から切り離された真空地帯に一人で立っているような感覚だった。研ぎ澄まされた視界の中で、空から舞い落ちる雪の結晶が、街灯の光を反射してダイヤモンドの粉のように輝いている。一つひとつの結晶が持つ、複雑な六角形の幾何学模様までが見えるようだった。

 不思議な全能感が徹を包んだ。
 さっきまで自分を押し潰そうとしていたプロジェクトの失敗も、失恋の痛みも、この圧倒的な雪の静寂の前では、取るに足らない小さな塵のように思えた。
「すべては――、ただの現象だ」
 徹の唇から漏れた言葉は、誰にも邪魔されることなく、自分自身の耳に真っ直ぐ届いた。
 雪は、街を汚す排気ガスも、アスファルトの無機質な硬さも、人間の醜い感情も、すべてを等しく白く塗りつぶしていく。それは拒絶ではなく、包容だった。
 徹は大きく息を吸い込んだ。冷たい空気が肺の隅々まで行き渡り、思考が氷のように透き通っていく。
 
 その時、不意に背後から強い衝撃を受けた。
「おい、邪魔だよ!」
 誰かの肩が激しく当たり、徹の体はよろめいた。
 その衝撃を合図に、堰を切ったように音が戻ってきた。
 大型ビジョンの低音、緊急車両のサイレン、遠くで響く誰かの泣き声。暴力的なまでの音の濁流が、再び徹の鼓膜を叩く。
 徹はゆっくりと体勢を立て直し、ぶつかってきた男の背中を見た。男は顔を真っ赤にして、スマホに向かって怒鳴り散らしながら去っていく。

 以前の徹なら、その怒りに同調して気分を害していただろう。だが、今の彼は違った。
 耳元を吹き抜ける喧騒は、もはや彼を侵食することはなかった。
 彼の内側には、先ほど触れた絶対的な静寂が、確かな核となって鎮座していた。どんなに周囲が騒がしくとも、自分の中にだけは、誰も踏み込めない聖域がある。
 徹はポケットの中で、冷たくなったスマートフォンを握りしめた。
 液晶画面は相変わらず絶望的な通知を表示し続けているが、彼はもう、それを恐れてはいなかった。
 一歩、足を踏み出す。
 サクッ、というあの音が、雑踏の中でもはっきりと聞こえた。
 
 雪はまだ、しんしんと降り続いている。
 都会が呼吸を止め、静寂が支配するその刹那を胸に抱いたまま、徹は迷いの消えた足取りで、白銀の闇へと歩き出した。

#雪の静寂

12/17/2025, 5:04:28 AM

※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在するものとは一切関係ありません。

タイトル『君と見ていた夢』

長い間忘れていた。
全ての始まりは君が見ていた夢だったということを。

自分で自分のことを画家と呼ぶのがまだ恥ずかしい。有名というほどではないが、ありがたいことに『夢を描く作家』なんて呼ばれ方をしながら、展示をすれば必ず足を運んでくれる人も何人かいる。少ないけれど、確かなファン。顔が見える人、記帳に毎度名前の残る人、面識はなくてもSNSで私の展示会に来たと言ってくれる人。

――次の絵が楽しみです。
展示会でかけてくれるその一言が嬉しい反面、胸の奥がきゅっと縮む。
止まってはいけない。描き続けなければならない。そうしなければ、期待を裏切ることになる気がして焦りが募る。

一方で自分の描いているものが本当に期待に応えられているのか。誰かにとっては悲しみを与えていないか。不快な思いをさせていないか。絵の中に様々な思いが混在して、所々が歪んで見える。
描き終えた絵のたった一筆が気になると、すべてのバランスが崩れて見える。キャンバスを真っ白に塗りつぶして、初めから描き直すことも多くなってきた。

ある日、アトリエの整理をしていて、古いスケッチブックが出てきた。紙は黄ばんで、角が少し折れている。開いた瞬間、懐かしい線が目に飛び込んできた。

それは、今の作品スタイルのもとになった最初の絵だった。
――昨日、変な夢を見たんだ。
そう言って君が話してくれた、断片的な光景。空の色も、場所も曖昧で、論理なんてなかった。でも君の言葉に滲む微睡みの色や形を、どうしても描きたいと思った。そこに義務や目標などなく、ただ君に見せるために。

今のスタイルのもとと言っても、今見返してみれば正直うまくはない。構図も甘いし、色使いにも迷いがある。でも、その絵には深い余白があった。制約も目的もない。夢とは本来、そういう場所だったはずなのに――。

私はそこで、はっとした。

あの頃の私は、誰かの期待に応えるために描いていなかった。夢はゴールではなく、誰かと分け合う途中経過だった。止まることも、迷うことも、怖くなかった。

いつからだろう。
夢が檻になったのは。

自分の作品を愛してくれる人の姿が見えるからこそ、一人一人の期待が重くのしかかる。応え続けなければ、存在価値がなくなる気がしていた。
いつの間にか、その期待すら自分の中で作り上げていなかったか。人の声を借りた自分への期待だったのではないか。
まだできる。まだ足りない。
まだ、まだ、まだ……。

自分を閉じ込めていたのは、私が自分で作った檻だった。鍵は最初から、内側にあったのに。

君との時間は、いつの間にか制作の合間に押し込められるようになった。会話は短くなり、夢の話をすることもなくなった。

いや、あの時も君は夢の話をしようとしたんじゃない。
ただ近くで寄り添ってくれた君から漏れてくる言葉を、僕が描きたかっただけなんだ。

私は君の見た夢の絵を、アトリエの入口から一番よく見える壁に掛け直した。展示のためでも、過去に戻るためでもない。ただ、忘れないために。

君が見ていた夢を。
私が夢を追い始めた理由を。

夢は、立ち止まったくらいで消えるものじゃない。向かう先さえ見失わなければ、ちゃんといまもそこにある。
もう一度筆を取ろう。期待のためだけじゃなく、大切なあの人と同じ景色を見るために。


#君が見た夢

12/14/2025, 6:20:41 AM

タイトル『希望の器(前編)』
 この世界の人々は、小さな画面から届く『導き』にすべてを委ねていた。
 朝になれば画面が淡く光り、その日どこへ行き、何をすべきかが簡潔に示される。『導き』の通りに動けば、未来は平穏で揺るぎない。

 幾何学的に整備された街は常に静かだった。
 人の流れは等間隔を保ち、完全に計画されたリズムの中で、交差点で立ち止まる隙もない。誰も空を見上げず、道を尋ねない。迷う必要がないからだ。
 すべては『導き』が知っている。

 この街に暮らすアラタも、その一人だった。
 いつものように画面を確認し、示された道を歩き、示された時間に仕事を終える。失敗はなく、後悔もない――はずだった。

 ある朝のリビングで、画面に表示された行き先を見つめながら、アラタは言葉にできない違和感を覚えた。
 明確な理由があるわけではない。ただ、その道を歩く自分の姿が、ひどく他人事のように思えた。

 アラタは一度深呼吸をして画面を伏せた。
 いずれにせよ、この『導き』通りに動くんだろう。これまで一度だって間違えたことはないのだから。
 ただ、示された行動の先を、ほんの少し考えてみようと思った。ただそれだけのこと。

 その時だった。
 ――ゴォン……。
 遠くの方で鳴る音が、耳に自然と入り込んできた。まるで重厚な鐘のような、低く重さを持った音。

 アラタは窓の外を見るが、周囲の人々は、誰一人として反応していない。皆、画面を見つめ、示された方向へ歩き続けている。

 一度きりの鐘の音が頭から離れず、アラタは画面を操作して音について調べた。
 だが画面に並ぶのは、世界が『導き』によって幸福な未来を選び続けているという情報ばかりで、鐘の音に関する話題は一切上がってこない。
 ――余計なことは考えるな。ただ導きに従えばいい。
 そんなことを言われている気がした。

『じゃあ、この耳に残る音はいったい何なんだ……』
 疑いようのない音の余韻がアラタの胸に静かな波を立てる。気づけば、端末を置いたまま家を出て、音が鳴ったと思われる方角へ歩き出していた。
 ――ゴーン……。
 また鐘の音が響いた。意識を耳に集中して、音の出どころを探る。こんな道があったのかと思うような細い路地を抜け、小さな空き地を抜けた先に古びた小屋を見つけた。

 小屋の中は静まり返り、窓から差し込む光の中に埃の粒がキラキラと舞っていた。ただひとつ置かれたテーブルの上に、一冊の紙の本が置かれているだけだった。

 紙の本など博物館でしか目にしたことはなかったが、擦り切れた本の端切れは、まさに時代を感じさせる見た目だった。
 興味から本を開くと、そこにはかつて世界の外へ踏み出した人々の記録が綴られていた。非効率で、危険で、成功率の低い行為の連なり。今の時代からは考えられない世界が広がっていた。

 アラタはあっという間に最後のページにたどり着く。そこには『希望の器』と題された一枚の挿絵があった。
 歪な形をした大きな器に雫が落ち、器を満たす水面には光の筋が描かれている。 

 アラタは耳に残る鐘の音が、何故かこの器と響き合うように感じた。理由は分からないが、この器がまだ世界のどこかにあるのなら、それを見てみたいと思った。

 また遠くで鐘が鳴った。さっきよりくっきりとした輪郭を持った音。アラタは本を閉じ、再び歩き出した。

 目指すは街の外。境界に近づくにつれ、ちらちらと周囲の視線がアラタに向けられる。
「たまにいるよな、ああいうやつ」
 そんな声が、背中をサッとかすめていく。しかし人々はすぐに画面へ視線を落とし、何事もなかったかのように歩き出す。
 アラタの向かう先には無関心に、街は変わらず整然と動き続けている。アラタにはその中へ戻る想像がなぜかうまくできなかった。

 気づけば森に囲まれた辺境の地にいた。
 森の奥の開けた場所にあの挿絵と同じ『希望の器』は確かにあった。
 器は、挿絵で見たようには満たされておらず、底の方で僅かな光が揺れているだけだった。
 
 器を囲む数人の人々はアラタと同じく、鐘の音を聞いてここにやってきたと言う。
 ただひとり、彼らとは明らかに異なる風貌の老人がいた。老人は器をじっと見つめ意味深に言葉を放つ。
「器の音を止めてはならん――」
 アラタはその老人の言葉の意味を捉えあぐねていたが、考えるより先に足が動いていた。

 アラタはその場にいた人々とともに高台に立って辺りを見渡す。そこから見える街は思っていたよりもずっと小さく、静かに閉ざされた空間としてぽつんと佇んでいた。

 器を響かせ続けるために、
 雫を止めないために僕らは何ができるのだろう。

 その問いに、まだ答えは見つからなかった。けれどアラタの胸には、小さな決意が芽生えていた。
 あの場所へ戻ろう。音を絶やさないために。
 人々と決意を共有した瞬間、器に落ちた雫がこれまでより大きな音を響かせる。
 その響きが、アラタの胸にも波を立てるのだった。

〜『希望の器』前編 了〜

 後編はnoteに掲載します。
https://note.com/yuuki_toe
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